唐の文化や制度を日本に取り入れようという目的で始まった遣唐使。
しかし、遣唐使は894年に廃止されてしまいます。
今回はそんな『遣唐使の廃止に至った経緯や理由』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
遣唐使とは?
(復元された遣唐使船 出典:Wikipedia)
遣唐使とは、7〜9世紀にかけて日本から唐(現在の中国)に送られた使節のことをいいます。
630年(欽明2)に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が派遣されてから、およそ200年以上にわたって日本よりも文化的に進んでいた唐から様々な文化や制度、宗教(仏教)を日本に伝えました。
しかし、894年当時の天皇「宇多天皇」の時、菅原道真の建議によって遣唐使は廃止となりました。
遣唐使の歴史【目的は?】
(8世紀前半の唐 出典:Wikipedia)
618年に現在の中国で隋が滅び、唐が建てられます。
そのため、使節は「遣隋使」から「遣唐使」へと名前を変え、唐文化を日本に伝えました。
①唐文化を取り入れるための使節
遣唐使の目的は、唐の進んでいる文化や政治の制度、当時日本で栄えてきていた仏教を唐で学び、それを日本に持ち帰って活かすことでした。
遣唐使が持ち帰ってきた唐文化や政治制度のおかげで、日本の文化も大きく進化することができました。
初めての遣唐使は630年(欽明2)、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が派遣されました。
これに始まって、約20回(諸説あります)遣唐使が派遣されました。
②政治的な外交
663年(天智2)、日本は唐と新羅(朝鮮半島にあった国)の連合軍と「白村江の戦い」を行います。
日本はこの戦いに大敗してしまいます。敵対してしまった唐から自分たちの国を守るためにも、日本は遣唐使を派遣します。自分たちはもう唐に敵意はないことを示すためです。
また、国交を絶えさせないことで、唐が「白村江の戦いで敵になった日本を滅ぼそう!」と考えないようにさせる目的もありました。
その後、唐と新羅の関係が悪化したのと、日本国内で内乱があったことで、しばらくの間(約30年間)遣唐使の派遣は行われませんでした。
再び遣唐使が派遣されたのは702年(大宝2)でした。
奈良時代の初期頃は唐から「定期的に朝廷に貢ぎ物をしに来ること」と約束を結ばれていたので、政治的な意味が強い遣唐使の派遣が重なりました。
③文化的な外交
奈良時代後期になってくると、遣唐使に政治的な意味は薄まって、文化的な目的が強まっていきました。
僧侶が留学をするために遣唐使として派遣されることも増え、逆に、唐の僧侶が日本に仏教を広めるために日本へ渡航してくることもありました。
唐の名僧、鑑真が日本へやってきたのもこの頃です。
(鑑真和上像 出典:Wikipedia)
鑑真は日本からやってきた留学僧「日本に仏教を広めて欲しい!」という願いを受けて、5度も日本へ帰る遣唐使の船で日本に行こうとしましたが、ことごとく失敗してしまいました。
危険な航海のせいで自らが盲目になってしまいましたが、6度目でようやく日本に来ることができました。鑑真は天皇から厚い信頼を得て、唐招提寺をたてて律宗を日本で広めました。
④遣唐使の廃止
平安時代は804年(延喜23)と838年(承和5)の2回、遣唐使の派遣を行ってからは完全に派遣は中断してしまいました。
894年(寛平6)には当時の宇多天皇が50年以上ぶりに遣唐使の派遣を計画しましたが、菅原道真の建議によってこの計画は停止されました。
(菅原道真 出典:Wikipedia)
そして、遣唐使の停止を申し立てた菅原道真は昌泰の変で大宰府に左遷され、のちに唐は907年(延喜7)に滅亡したことによって、完全に遣唐使は廃止されることになりました。
なぜ遣唐使は廃止されたのか?
菅原道真の建議がきっかけで遣唐使は廃止されましたが、その理由とは一体何だったのでしょうか。
①唐の衰退
当時の唐はとても大きな国でしたが、755年〜763年に唐で起こった「安史の乱」という内乱で、みるみる衰退していってしまいました。
もともと遣唐使は、唐という大きな国から文化や制度、宗教を日本に取り入れようという目的で始まったものです。
しかし、そのお手本ともするべき国が衰えてしまっては、もはや危険を冒してまで遣唐使を送る必要はありませんでした。
②危険な航路
(遣唐使の航路 出典:Wikipedia)
遣唐使が派遣された時代は、もちろん船を作る技術や航海の技術が発達する前の時代ですので、遣唐使を乗せた船の航海はとにかく危険でした。
遣唐使が派遣され始めてから、後期は特に遭難したりする船が相次いでしまいました。船の大型化(100人以上の使節団だったため)や激しい気候が原因ではないかと考えられています。
753年(天平勝宝5)には、藤原清河と阿倍仲麻呂は唐から帰国するために出航しますが、暴風雨に遭い、現在のベトナムに漂着してしまいます。なんとかもう一度唐へ戻ることはできましたが、その後帰国のチャンスを得られず、二人は唐朝に仕えたまま生涯を終えました。
菅原道真自身は、遣唐使の停止を申し出たときに「唐へ行くのはとても危険だし、過去の記録によれば盗賊に遭ったりすることもあったという。日本にとって有能な人材を失ってしまうかもしれない」と進言しました。
遣唐使が廃止された後の日本
遣唐使が廃止されたあと、日本には「国風文化」が芽生えます。
国風文化とは、唐風を吸収・消化して、日本的な特徴を持った文化のことです。この国風(和風)の文化で、雅(みやび)なモノ・文学が生まれました。
ただ、これは遣唐使が廃止され、外国の文化の影響を受けなかったことによって、国風文化が栄えたというわけではありません。
遣唐使が廃止されたあとも、中国から商人は度々日本へやってきていたので、遣唐使がいなくても、中国の品物や文学を手にいれることができました。
また、貴族の生活も唐物(中国の品物)が中心で、政治に使われる文書にも、かな文字ではなく漢文が使われ続けていました。
しかし、遣唐使が廃止されたことによって、国風文化が一層栄えることになったので、遣唐使の廃止は現在の日本文化にもつながる国風文化を盛り上げる一因になったといえるでしょう。
まとめ
・7〜9世紀にかけて、日本から唐に送られた使節のことを「遣唐使」という。
・遣唐使の目的は、唐の進んでいる文化や政治制度や仏教を日本に持ち帰って活かすことだった。
・白村江の戦いのあとから奈良時代前期までの遣唐使派遣は政治的な意味合いが強かった。
・奈良時代後期の遣唐使派遣は、留学僧の同行などで文化的な意味が強まった。
・894年(寛平6)には宇多天皇が遣唐使の派遣を計画したが、菅原道真の建議によってこの計画は停止され、唐の滅亡とともに遣唐使は廃止した。
・遣唐使が廃止した理由は唐の内乱による衰退と、危険な航海が懸念されたから。
・遣唐使が廃止されたあと、日本では「国風文化」が栄えた。