【勘合貿易とは】簡単に解説!!貿易理由は?合い札や輸入品&輸出品について!

 

勘合貿易は日明貿易とも呼ばれていますが、この貿易は日本と明との対等な通商かと言われると、そうではありません。

 

ではどのような貿易だったのか?室町幕府はなぜこの貿易を開始したのか?今回はそんな『勘合貿易』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

勘合貿易とは

 

 

勘合貿易とは、室町時代に行われた日本と明との間の貿易のことです。

 

勘合を使った貿易だったので勘合貿易と言われています。また明との貿易なので、日明貿易とも言われています。

 

では「勘合」とは何なのか、なぜそれを使ったのか、実際にどういったものが輸入され、輸出されたのかを詳しく解説していきます。

 

勘合貿易が始まるまでの流れ

(朱 元璋 出典:Wikipedia

 ①倭寇の存在

中国では、1368年に朱元璋が元の支配を排して、漢民族の王朝であるを建国しました。

 

明は、中国を中心とする伝統的な国際秩序の回復を目指して、近隣の諸国に通交を求めました。

 

しかし当時、対馬・壱岐・肥前などの住民を中心とした海賊集団が、朝鮮半島や中国大陸の沿岸をおそい、倭寇(わこう)と呼ばれて恐れられていました。

 

倭寇の活動をおそれた明は、私的な貿易を禁止するとともに、日本に倭寇の取り締まりを求めてきました。

 

②日本の対応

(足利義満 出典:Wikipedia

 

 

これにこたえて足利義満1401(応永8)年、九州管轄のためにおいた九州探題に倭寇の取り締まりを命じ、明との国交を開くために使いを送ります。

 

そして、足利義満は、祖阿(そあ)を正使、博多商人の肥富(こいつみ)を副使とする使節を明に派遣し、正式な通交を開くように求めました。

 

このとき義満は、明の皇帝に金1000両、馬10匹など多くの物を献じ、漂流者(実際は倭寇に捕らえられた人)を送還しました。

 

この使節は翌年、明の使いを伴って帰国し、明の国書をもたらしました。

 

③勘合貿易が始まり

ついで1403年、天竜寺の堅中圭密(けんちゅうけいみつ)が正使となって明に入り、その翌年の1404年、帰国時に明使が同行、初めて永楽帝(えいらくてい)の勘合と「日本国王之印」と刻した金印を義満に与えました。

 

こうして1404年、日明貿易つまり勘合貿易が始まります。

 

貿易理由『足利義満の思惑』

 

 

足利義満は、明と外交関係を結んで「日本国王」に任じられることを強く望みました。

 

それは、幕府に敵対する勢力が日本国王となって明と手を結ぶことを防ぎ、自らが「日本国王」となることで権威を高め、国内の支配体制を安定させるためでした。

 

1402年に義満が日本国王に任じられたことで、この目的はほぼ達成されました。

 

また義満は、日明貿易の利益にもひかれていました。当時、明は外国に対して朝貢貿易の形式をとることを強制しており、日明貿易も日本が貢物を明に献上し、明が日本に物を与えるという形式がとられました。

 

中国では、臣下である国王が遠くからわざわざ使者を送って貢物をもってくるのは、皇帝の素晴らしさ(徳)を慕っているからだと考えていました。

 

そのため、使者に対しては、よくきたと褒めたうえ、貢物の何倍もの価値がある品物を与え、徳を示す必要がありました。明皇帝にとっての貿易は、自分の徳を世界に広めるためのものだったのです。

 

これによって勘合貿易は日本に大きな利益をもたらしました。

 

勘合貿易の詳細

①「勘合(合い札)」とは?

倭寇がはびこっていた当時、明は海禁政策をとって、自国と外国の船の自由な渡航、貿易を禁止しました。この際、公私の船を区別するために合い札の勘合が用いられたので、勘合貿易とも呼ばれたのです。

 

日明間の勘合は、「日字〇號」「本字〇號」の文書をそれぞれ中央から折半し、一方を勘合、他方を勘合低簿として照合しました。明からの船は日字勘合を、日本からの船は本字勘合を持参しました。

 

 

②勘合貿易で輸出したもの、輸入したもの

 

勘合貿易では主に、日本からは銅・硫黄・刀剣・漆器などが輸出され、明から銅銭生糸・絹織物などを持ち帰りました。

 

国王の使者を乗せた船団には、献上品以外にも荷物を積みこみ、規則に従って中国国内で売買することが認められていました。

 

日本からは刀剣・銅・硫黄などが輸出され、銅銭・絹織物・生糸・薬・砂糖・美術工芸品・書籍などが輸入されました。

 

もちかえった銅銭は、そのまま日本でも貨幣として流通します。また、中国製品は唐物(からもの)と呼ばれ、高級品として人気があり、特に絹織物や生糸は仕入れた何倍もの値段で売れました。

 

③勘合貿易の性格

さきほどの説明と重複するのですが、明との関係を考える上でも重要なことなので、改めて説明します。

 

明は外国に対して朝貢貿易の形式をとることを強制しており、日明貿易も日本が貢物を明に献上し、明が日本に物を与えるという形式がとられました。

 

中国では、臣下である国王が遠くからわざわざ使者を送って貢物をもってくるのは、皇帝の素晴らしさ(徳)を慕っているからだと考えていました。

 

そのため、使者に対してはよくきたと褒めたうえ、貢物の何倍もの価値がある品物を与え、徳を示す必要がありました。明皇帝にとっての貿易は、自分の徳を世界に広めるためのものだったのです。

 

国交をひらくにあたり、義満は使者に国書を持たせて明に派遣し、これに対し明の皇帝は「日本国王源道義」(道義は義満の法号)あての辺書と明の暦を義満に与えました。以後、将軍から明の皇帝におくる公式文書には「日本国王臣源」と署名しました。暦を受け取ることは、服属を認める象徴的行為でした。

 

明と日本は対等な関係ではなかったことがうかがえます。義満もそれを承知の上で、「日本国王」の称号を得ることと、貿易による利益を優先したと考えられます。

 

④勘合貿易≒日明貿易

ここまでは、ほぼ勘合貿易=日明貿易という風に説明してきましたが、ものすごく厳密にいうと、完全にイコールではありません。

 

というのも、日明貿易はあくまで日本と明との交易のことを指すので、倭寇が行った密貿易も言ってしまえば日明貿易に分類できるのです。ですので、厳密にいうと、日明貿易のなかでも、勘合を使って公式に行ったものを勘合貿易といいます。

 

念のための説明ですが、ほとんどは勘合貿易=日明貿易と考えて差し支えないと思います。

 

勘合貿易の中断と再開

 

 

こうして1410年まで毎年のように遣明船もしくは明船の渡航があり、明船もまた日本で貿易を行いました。

 

しかし、義満が死んだ3年後、4代将軍足利義持は明の使者が京都に入ることを許さず、日明関係を断絶させました。この決定を下したのは、両国が対等ではなく、明皇帝が主人で日本国王は臣下だという、冊封関係を嫌う人々が、幕府にも朝廷にも多かったからです。

 

室町幕府の支配が安定したことで、別の日本国王が現れるおそれはなくなりました。そのため、誇りを傷つけられる関係をとりやめるという選択ができるようになったのです。

 

しかしその後、義持の死後に将軍になった足利義教は、また日明関係を復活させます。義教は貿易の再開を望んでいました。

 

(足利義教 出典:Wikipedia

 

 

貿易の利益は、いろいろな形で幕府の財政をうるおします。そのため、いったん断絶していた関係を復活させたのです。義教が復活をはかったのは、義満が貿易で大きな利益をあげていたことをよく知っていたからです。

 

勘合貿易のその後

勘合貿易の実権は、はじめ幕府の手にありました。

 

しかし、15世紀後半、幕府の衰退と共にやがて大内氏細川氏の手に移りました。

 

大内氏は博多商人、細川氏は堺商人と結んで激しく争い、ついに1523(大永3)年の寧波での両者の衝突(=寧波の乱)により、大内氏が貿易を独占するようになりました。

 

この勘合貿易も、16世紀半ばに大内氏の滅亡とともに断絶しました。

 

まとめ

・勘合貿易は、1404年から室町時代の間に行われた、日本と明との間の正式な貿易。

・勘合貿易は、朝貢貿易の形式をとっており、日本と明の関係は対等とは言えなかった。

・4代将軍足利義持のときに一時中断するが、6代将軍足利義教のときに再開される。

・幕府の衰退とともに、貿易の実権はやがて細川氏や大内氏の手に移った。