観応の擾乱は、かなり複雑な事情が絡む内乱です。
細かいところまで理解するとなるとかなり難しい内容です。
今回はそんなややこしい『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』について、起こった原因、その結果などについて、出来る限りかみ砕いてわかりやすく解説していきます。
目次
観応の擾乱とは
(足利 尊氏 出典:Wikipedia)
観応の擾乱とは、1350年、足利尊氏が弟の直義(ただよし)と対立したことから起こった内乱のことです。
より正確に言うと、尊氏の執事だった高師直と直義が衝突したことがきっかけです。この内乱は1352年に直義が毒殺されたことで、一応終息します。
一言で言ってしまうとこんなに簡単に説明できてしまいますが、その原因や内容はかなり複雑です。その混乱具合はこの「擾乱」という言葉にも表れています。ただの「乱」じゃあないんです。
難しい漢字のこの「擾乱」は「入り乱れて騒ぐこと。また、秩序をかき乱すこと」という意味です。ただの「乱」じゃないというのは、この「入り乱れて」という部分です。どのくらい入り乱れていたのかは、これから説明していきます。
説明する際、どうしても登場人物が多くなってしまうのですが、注目すべきは足利尊氏・直義兄弟と高師直です。尊氏派なのか、直義派なのかに注目して見ていってください。
観応の擾乱が起こった原因は?
(出典:Wikipedia)
①室町幕府は二頭政治だった
全ての始まりはこれといっても過言ではありません。
創立期の幕府は、足利尊氏・直義兄弟の間で明確な権限分割が行われ、いわゆる二頭政治の形態をとって発足しました。尊氏はいわゆる武士的な主従関係によって、幕府の軍事面を担当し、武士の支配権を握っていたといえます。一方、直義は評定・引付方など、いわゆる司法権・行政権の部分を担っていました。
この徹底的とも言える権力分割は、建武の新政の失敗をうけてのものとも言えます。建武の新政は、とにかく天皇へ権力を集中させようとして、専制政治を行いました。その結果、武士にも貴族にも果てには農民にも見限られ、最終的には反乱により幕を閉じました。その失敗をうけ、一人への権力集中を避けたともいえます。
一見よさそうに見えるのですが、権力が真っ二つに分かれている状態は、非常に不安定な情勢を生み出します。どのように不安定なのか、順に説明していきます。
②守護の上司はどっち?
この権限分割の上で最も問題となるのは守護です。
守護は各国の軍事指揮官ですので、当然、尊氏の権限下にあります。一方、裁判を行ったり国内の行政を担当したりという側面では、直義側の権限とも密接な関係をもちます。つまり、守護は二重の権力構造の中にいるのです。
これの何が不都合かというと、つまり上の二人の意見が食い違ったときにどうするの?ということです。
例えば、尊氏がこの守護をやめさせたい!と思っても、直義がその守護をやめさせるべきではないと思ったとき、ここに既に摩擦が起きます。これが積み重なっていくと…まあ混乱というか、争いにつながりますね。こういったところの問題が大きく発展して擾乱につながったとも言えます。
後で説明しますが、尊氏派と直義派は考え方の方向性がそもそも違います。軍事面と内政面という分かれ方をしている時点でなんとなくお察しな部分ですね。
③尊氏派と直義派
一見よさそうに見えた権力機構の分割ですが、これは政治勢力の派閥の発生を意味します。
特にこの際、尊氏・直義が兄弟としての親密関係を最後まで失わなかったのに対し、尊氏の代官たる地位にあった執事高師直(こうのもろなお)の存在がこの派閥発生に拍車をかけました。
(騎馬武者像"高師直という説がある" 出典:Wikipedia)
直義からみれば師直は重代の被官(先祖代々の役職をそのまま引き継いでいること)にすぎず、師直は将軍尊氏の権威によって直義を邪魔しようとします。
しかも直義の考え方の基本が、法と証文を優先させる保守的なものにおかれたのに対し、師直は実力による既成事実を第一とする急進派の中心にありました。
そのため、職の基盤にたつ関東の大豪族武士団や前代以来の官僚型武士は直義派に、畿内周辺の小規模な新興武士団は尊氏派につきました。見方を変えれば、足利一門や惣領が直義側に、譜代の御内や庶子が尊氏方に結集していきました。
しかしながら、両派が対抗関係を明確にした後は、両派への分かれ方は、各個人の具体的な利害関係に従ってさらに複雑となります。
たとえば、のちに直義派の最右翼に属した桃井直常も、その発端は戦功を尊氏・師直に認められなかった怨みからであるといわれています。また、多くの国々では守護に就くことができる有力武士のうち、一方が尊氏派にあれば他方は直義方に属して守護になれるようにご機嫌をうかがうというような状態でした。
④対立の激化
このように次第に高まってきた両派の対立は、共通の敵である南朝に対する軍事行動によって深まります。
貞和3(1347)年8月、河内・和泉の南軍の討伐に際し、直義派の細川顕氏・山名時氏らが敗北したあとをうけて、翌年正月、師直・師泰らは一挙に吉野に攻め込んで後村上天皇を追放するという大戦果をおさめ、師直の勢威は一挙に高まって両派の軍事的政治的バランスが崩れました。
そのため、直義は貞和5(1349)年、尊氏に強く頼んで、師直の執事を罷免させるという強硬手段に訴えざるを得なくなりました。
こうして、対立は決定的段階を迎えることになります。
観応の擾乱の詳細
①ついに起こった観応の擾乱
先ほど説明した通り、軍事的優位に立っていた師直は、貞和5(1349)年8月尊氏派を京都に結集し、尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲。
直義政務の罷免、代わって尊氏の長男義詮(よしあきら)の登用、さらに直義派の中心的人物だった上杉重能・畠山直宗の流罪(ついで殺害)などの圧倒的勝利を勝ちとりました。
これによって師直は執事に復職します。
この間における尊氏の動きは不可解な要素が多いのですが、彼の真意は政務の直義から義詮への移譲にあい、その障害物であったのが尊氏の実子でありながら直義の養子となった直冬の存在であったと考えられます。
尊氏は直義の失脚後も執拗に直冬の滅亡を画策し、直冬も観応の年号を認めず中国・九州地方で反師直の軍を集めていました。
出家して恵源と号し、一旦は世を捨てたようにみえた直義も、翌観応元(1350)年10月、直冬追討のためみずから西下しようとした尊氏・師直の不意を突いて大和に走り、ここに両派の全面的な武力衝突が始まりました。
②南朝軍を味方につけた直義派
直義派の主力は四国の細川顕氏、畿南の畠山国清・石塔頼房、北陸の桃井直常らであり、形勢を観望していた山名時氏・斯波高経らも加わって、観応2(1351)年正月には京都に残っていた義詮を追いました。
この間直義は南朝に講和を申し入れ、観応元年12月13日付で「早く義兵を揚げ、天下静謐の策をめぐらすべし」との綸旨を獲得するのに成功していました。
つまり、南朝から公認で騒乱をおさめるために動くことができるようになりました。
両者の駆け引きの内容は不明な点が多いのですが、直義が幕府政治の存続をあくまで譲らなかったこと、南朝側では北畠親房の現実論が強硬派を圧えて和議をまとめたことなどが注目されています。
いずれにせよ畿南では当時、かなりの軍事力を保有していた南軍を同盟軍となし得たことは、ほぼ同じころ関東で上杉憲顕が高師冬を滅ぼしたことと併せて両派の形勢をほぼ決定的なものとしました。
③擾乱の終息
観応2(1351)年2月17日、摂津打出浜の戦に敗れた尊氏は和を請い、師直・師泰はかつて師直に殺された上杉重能の養子である能憲の手にかかって殺されました。
こうして義詮の政務を直義が後見するという形で幕政が再開されますが、両派の一本化は進まず、山積した乱後処理のための法令が1つも残されていないことは、政局の不安定さを物語るものといえます。
特に勝利者であるべきはずの直義方の衰退が意外に早く訪れ、7月19日には直義はみずから政務の返上を申し入れ、翌月1日には自派の守護で固める北陸めざして再び京都を捨てざるを得なくなりました。
この後、尊氏・直義、それに5月以降、和議が破れて京都をうかがう南朝を加えて、いわゆる天下三分の形勢が現れました。
一時は越前金崎城に拠点を構えた直義の優勢が伝えられ、和議の交渉も行われましたが成立しませんでした。
9月近江の戦で敗北した直義は上杉憲顕を頼って関東に向かい、11月鎌倉に入りました。
尊氏は先日の直義の例を真似るかのように、南朝との和議をまとめて後方の安全を確実にした後東下し、駿河・伊豆などで直義軍を破って文和元(1352)年正月鎌倉を占領。2月26日の直義の服毒死によってこの大乱も一応の結末を迎えました。
結局、勝者はどっち?
これまでの説明で観応の擾乱について詳しく見てきましたが、結局どっちが勝ったの?と疑問に思う人は多いはず。何しろ、一応勝利者であったはずの直義はその後すぐに死んでしまいます。
この服毒死についても、尊氏が毒殺したという話もありますが、これについては証拠といえるものがないのでなんとも言えません。
ただ、尊氏にその「機会と動機」があったのは確実です。
今まで堅苦しい歴史の流れを説明したので、少し人間的な部分について触れたいと思います。
一度勝利をおさめた直義でしたが、賢明で鋭い直義は「先が見えるから」こそ、兄の居なくなった時の武士のまとめに自信が持てませんでした。
直義はあくまで政務官であり、武力を率いることに自信がなかったのです。対して兄の尊氏は、いわゆる武士のカリスマ性のようなものを持っていました。この人についていきたい!と思わせるものがあったのです。
そして尊氏は「大のために小を捨てる」ことができました。ここも将軍として兵を率いる者のカリスマ性。この部分で、直義は「上に立つ素質」が足りなかったと言えます。直義みずから政務を返上したのは、彼が賢明であったが故とも言えるのです。
長々と説明しましたが、言うのであれば、直義が勝利者であり、同時に敗者でもありました。
最終的に生き残ったのはというと、尊氏ですので、尊氏が勝者とも言えます。
もやもやするところではありますが、こう言うほかありません。
観応の擾乱の語呂合わせ
観応の擾乱は、南北朝の動乱を長引かせる一つの要因となってしまいました。
これにより、全国各地の武士たちの間でも対立がさらに広がっていきます。南北朝の動乱は、足利義満が第3代将軍になる1360年代後半から、ようやく終わりに向かい始めます。
観応の擾乱が始まったのは1350年です。語呂合わせで覚えるなら・・・
「足利一味(13)が困る(50)観応の擾乱」
がおすすめです!
まとめ
・観応の擾乱は、1350年、足利尊氏の執事高師直が尊氏の弟直義と対立したことから始まった。
・勝者は直義、しかし最終的に生き残ったのは尊氏。
・観応の擾乱は、南北朝の動乱を長引かせる一要因となった。
・語呂合わせは「足利一味(13)が困る(50)観応の擾乱」。