【三・一独立運動とは】わかりやすく解説!!運動の原因や結果・背景について

 

近現代史に入ると多くなる、「数字+事件」や「数字+運動」の語句の数々。

 

人名や地名が入っていないのでイメージしにくいのですが、ぱっと覚えてマスターしてしまいましょう!

  

三・一独立運動は第一次大戦後に起きた朝鮮における独立運動です。いったい、どこから独立しようとしたのか。

 

それは日本です。

 

三・一は3月1日のことですね。いったいこの日に何が起こったのでしょうか?

 

今回は、三・一独立運動についてわかりやすく解説していきます!

 

【三・一独立運動とは】わかりやすく解説!!

①朝鮮で日本からの独立を宣言!

1919年3月1日、日本の植民地になっていた朝鮮で知識層や学生がソウル(京城)で日本からの独立を宣言しました。

 

宣言をしただけなので、実際に政権を奪ったり、自治を始めたわけではないのですが、公然と自治独立を求めたこの行為をきっかけに各地で反日、反植民地支配の独立運動が広がっていきます。

 

②運動のきっかけ&原因

 

直接のきっかけは大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀です。

 

高宗の死は自然死であったと考えられていますが、韓国国内にはいろいろな噂が出回りました。

 

いわく、

「自分の息子が日本の皇族(梨本宮家方子)と結婚するのが悔しくて毒を飲んだのだ」

「韓国を日本に併合してくれと自分が頼んだのだ、という文書をパリ講和会議に提出しろと言われて、断ったために殺されたのだ」

 

など、事実無根ですがそんなうわさが出るほど韓国皇帝の立場に民衆が同情していたとも言えます。

 

3月3日に国葬が行われることになっていたため、この日に向けて計画が立てられました。大戦後、世界的に高まるナショナリズムの機運に合わせて、韓国でも独立を求める運動が始まったのです。

 

③独立運動の参加者は33人。デモは弾圧

三・一独立運動で独立宣言書の読み上げに参加したのは33人で中心となったのは天道教やキリスト教、仏教の指導者です。

 

独立宣言書は天道教の印刷所で印刷され、各自の宗教ネットワークを通じて各都市に配布されました。

 

独立運動によるデモは600か所以上で起き、参加する人も学生や知識人から始まって、農民や官僚、貴族までほぼすべての階層を巻き込む大規模なうねりとなっていきます。

 

最初は平和的な手段、デモ行進やストを行っていた独立運動も、次第に憲兵や警官のいる駐在所を襲ったり、投石や放火も行われるなど、治安部隊との衝突も激しくなっていきました。

 

日本政府は朝鮮総督府を通じてデモの鎮圧を急ぎ、警察の他軍隊を投入して首謀者の逮捕、武力による鎮圧を進めました。

 

④日本本土にはどう伝わったか

事件の最初、マスコミは事件に批判的で「朝鮮各地の暴動」、「三・一暴動」などと伝えられました。

 

しかし、だんだんと日本の統治方法が良くないのではないか、という論調も出てくるようになり、武力でいうことを聞かせるのではなく、朝鮮人の待遇を改善したり、軍関係者以外でも総督になれるようにするべきという意見ものるようになりました。

 

大正デモクラシーの主導者であった吉野作造は独立を支持し、のちに総理大臣となる石橋湛山も独立運動に理解を示しています。

 

また、朝鮮半島の工芸品などに造詣の深い柳宗悦も民衆の心情に寄り添いました。

 

 

⑤独立運動のその後

2か月ほどでこの独立運動は終息し、四月中には新たな騒ぎは起こらなくなりました。

 

その後朝鮮では第二次世界大戦の終戦までの二十数年間、大きな独立運動は起きませんでした

 

事件後日本が統治政策を転換したためとも、首謀者が国外に行ってしまったためともいわれています。

 

⑥三・一独立運動がもたらしたもの

(現ソウルの公園に飾られているレリーフ 出典:Wikipedia

 

 

朝鮮総督府は三・一以降、以前の締め付けの厳しい統治体制を改め、言論や集会の自由をみとめるようになりました。

 

また、陸軍の軍人が警察を務める憲兵警察制度もなくなりました。日本はこの独立運動を受けて、朝鮮支配をよりソフトな形に変えていったのです。

 

また、三・一独立運動は別名三・一事件、三・一運動とも呼ばれます。また、デモの際に「独立万歳」と叫んでいたことから「万歳事件」とも呼ばれています。

 

⑦ 大戦後のトレンドは「民族自決」!

三・一独立運動は1919年に起きています。この年、世界は大きな戦争を終わらせました。

 

第一次世界大戦です。

 

第一次世界大戦は帝国同士の戦いでした。ヨーロッパの国々はアジアやアフリカに多くの植民地をもち、互いに覇権を競って第1次世界大戦が起きたのですが、大戦後、潮目が変わります。

 

1919年の1月からパリ講和会議が始まり、アメリカ大統領のウィルソンが熱烈な歓迎を受けてパリに到着しました。

 

彼は「民族自決」という考えを提唱しました。各民族集団は集団の意思に基づいて自分たちがどの国に属するのか、これからどうするのかを決められる、という権利です。

 

これまで世界は帝国主義の広がりに合わせて、小国は大きな国に飲み込まれていったのですが、この時から「民族自決」がトレンドになります。

 

この考えに基づいてドイツ、オーストリア、ロシア、トルコの4帝国の版図にあった各民族が独立し、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアなどが国家として認めらました。

 

ヨーロッパから離れた東アジアでもこのトレンドは広まり、モンゴルやアフガニスタンの独立、朝鮮での三・一独立運動につながっていくのです。

 

三・一の今

朝鮮から韓国となった今でも、3月1日は国を挙げての大きな祝日になっています。

 

この日に韓国国内を歩くと国旗が掲げられ、独立運動で亡くなった人を悼む記念行事や、独立を祝う記念式典が行われているのを目にするでしょう。

 

三一節とも呼ばれています。

 

三・一独立運動の語呂合わせ

 

同じ年に起きた中国での反日・反帝国主義運動の五・四運動と間違えないようにしましょう。

 

「いくいくちょーさん中腰で」

(1919 朝 三 中 五・四)

 

と覚えましょう!

 

まとめ

 三・一独立運動は1919年に起きた、朝鮮半島における独立運動。

 運動の背景には第一次世界大戦後のナショナリズムの高まりがあり、直接のきっかけは高宗の葬儀。

 独立運動は「独立万歳」を叫ぶデモが多かったため別名「万歳事件」と呼ばれる。

 この運動の結果、日本政府は朝鮮の統治をハード路線(武断政治)からソフト路線(文治政治)に転換。

 大正デモクラシーの担い手吉野作造や石橋湛山は三・一独立運動を支持ないし理解を示した
現在、3月1日は韓国の大きな祝日。

《参考文献》おすすめの書籍

閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母―

《著》角田房子 新潮文庫

 

アヘン戦争以降、国力を落とし衰退著しい清朝と、侵略を進める欧米列強、明治維新後国力を高める日本、この間でどうやって国を維持していくのか、韓国国内(李朝)では激しい権力闘争がありました。

 

この本は日本公使館の関与で暗殺された閔妃を中心に、どんな闘争が李氏朝鮮の中で起きていたのかを明らかにしています。

 

非常にドラマチックかつ史実に基づいており、韓国併合あたりの事情がよく分かります。

 

文庫で出ていて数百円で入手できるのでお勧めです。

 

中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義

 

《著》中村 岳志 (白水Uブックス) 新書

 

1915年に日本に来て中村屋に美味しいカレーを伝えた男はインド独立運動の志士であった!代位1次世界大戦後のアジアのナショナリズムについて知りたいときはこちら