18世紀後半からの産業革命によって、巨万の富と強大な力を得たイギリス。
しかし、19世紀にアジアの大国・清(中国)との貿易を独占しながらも、イギリス国内で紅茶の需要が高まったことが原因で貿易赤字に!
そこでイギリスが始めたのが三角貿易です。
今回は、そんなイギリスが清(中国)とインドの三国間で行った『三角貿易』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
三角貿易とは?
(ケシの果実)
三角貿易とは、19世紀に、イギリス、インド、清(中国)との3つの国の間で行われた貿易ことです。
この三角貿易を説明する上で、ポイントとなる貿易品は、茶とケシの実からつくられるアヘンと呼ばれる麻薬です。
アヘンは公に認められた貿易品ではなく、イギリスが自国の利益だけを考え、密貿易で取引きした品目でした。
また、インドがイギリスの植民地になっていたこともポイントです。
三角貿易の目的・背景
(昔の貿易風景)
①三角貿易を始めた目的
三角貿易を始めた目的を簡単にいうと、イギリスが貿易によって中国に流出した銀を回収するためです。
1780年代イギリス国内で空前の紅茶ブームが起こり、イギリスは清から大量に茶を輸入するようになりました。
その際、茶の代金を銀で支払ったため、清へ大量に銀が流出しました。
そこでイギリスは、清に流出した銀を回収しようと三角貿易を開始したのです。
では、ここからより詳しく、三角貿易に至った経緯をみていきましょう。
②イギリスは紅茶ブームで貿易赤字に
15世紀半ばからヨーロッパ諸国は大航海時代を迎え、アジアの豊かな資源を手に入れようと次々と航海に出発しました。
スペインやオランダから少し出遅れた感のあるイギリスでしたが、1600年に東インド会社を設立し、インドに進出しました。
東インド会社とは、アジアの香辛料や綿花といった資源を売買するために設立した会社のこと。イギリスのほか、オランダ東インド会社、フランス東インド会社もありました。
18世紀後半になり産業革命で驚異的な力をつけたイギリスは、他の国の東インド会社を押しのけ、アジアの大国・清との貿易をほぼ独占し、大いに儲けていました。
そんな左うちわで“ウハウハ”なイギリスでしたが、1780年代に入り、イギリス国内で空前の紅茶ブームが巻き起こりました。
現在でも続く、イギリスの“アフタヌーンティー”の習慣はこのころ始まったわけですね。
イギリス人が紅茶を飲むことを習慣化したことで、清との貿易の事情も変わってきました。
イギリス国内での茶の需要が高まったことで、清から茶を大量に輸入するようになったのです。
その際、イギリスにとって茶の輸入額以上にイギリスの綿製品の輸出額が上回れば黒字で問題なかったのですが、イギリスの綿製品は清で売れず大幅な貿易赤字を出してしまいました。
そのため、清には、茶の代金として支払ったイギリスの銀が大量に流入しました。
つまり、イギリスの貿易赤字分の銀が清の儲けとなり、清の懐に入ったわけです。
③植民地インドでアヘンを生産
(アヘンを吸う中国人 出典:Wikipedia)
清(中国)からなんとしても銀を取り戻したと考えていたイギリスが目をつけたのは、清の人々のアヘンを吸う習慣でした。
イギリスは、当時植民地にしていたインドでアヘンの材料となるケシの実を栽培し、インドの人たちに大量のアヘンを生産させました。
インドでは、18世紀後半からイギリスがインド各地で戦争を起こすようになり、次々と支配を広げ、19世紀半ばには、ほぼインド全域がイギリスの植民地になりました。
三角貿易の内容『貿易のしくみ』
イギリスが行った銀の回収大作戦。三角貿易のしくみはこうです。
植民地のインドで生産したアヘンを密貿易で清へ輸出。清はアヘンの代金としてインドへ銀を支払います。
インドはイギリスからイギリス産の綿織物を売りつけられ、アヘンを売って稼いだ銀でイギリスに綿織物の代金を支払います。
こうして、植民地のインドを経由し、見事、イギリスの懐に銀が戻ってくるのです。
三角貿易の影響と結果
①清の国内にアヘン中毒者が増加
イギリスが銀を回収するために目をつけたアヘンは、みなさんご存知のとおり健全なものではありませんでした。
強い依存性と激しい禁断症状が出る、一度吸ったらやめられない麻薬です。
アヘンはあっという間に清国内に蔓延していきました。
気力をなくし、廃人となったアヘン中毒者が飛躍的に増え、国の風紀も著しく乱れました。
一度吸ったら需要がずっとつづく麻薬で儲けようなんて、ひどすぎますよね。
さらに、インドからのアヘンの輸入量は膨大で、清から銀が大量に流出。財政難となっただけでなく、深刻な経済危機にまで陥りました。
②アヘン戦争開戦
国内の状況に危機感をもった清の政府はアヘンの取り締まりを行いました。
イギリス商人からアヘンを没収し焼き捨て、アヘン貿易を禁止したのです。
(アヘン禁止令。焼却される喫煙具 出典:Wikipedia)
しかし、このことをきっかけに、イギリスは非情にも、弱っている清にさらなる攻撃をしかけました。
イギリスは、自国の貿易と商人の保護を口実に、清との間でアヘン戦争(1840年~1842年)を始めました。
もちろん三角貿易で弱体化していた清はイギリスに敗れ、南京条約を結ばされました。
この南京条約は不平等条約で、賠償金2100万ドルの支払い、広州・福州・厦門 (アモイ)・寧波(ニンポー)・上海の5港の開港、香港の受け渡しなどが盛り込まれていました。
③日本への影響
アヘン戦争が起こったこの当時の日本は江戸時代。
1841年~1843年は、老中・水野忠邦による天保の改革が行われていました。
アヘン戦争で大国・清が敗北したことは、日本にとって衝撃でした。
イギリスをはじめヨーロッパの国々の強さに“びびった”日本は、当時発令した異国船打払令(=沿岸に近づく外国船を攻撃するという法令)をゆるめ、攻撃しないことにしました。
まとめ
✔ 三角貿易とは、19世紀、イギリスが清 (中国) との貿易で流出した銀を回収するため、植民地のインドを加えた3国間で行った貿易のこと。
✔ 18世紀後半、イギリスの国内で紅茶を飲むことが習慣化され、大量の茶を清から輸入することになった。
✔ イギリスは銀を回収するため、植民地のインドで生産したアヘンを清へ密貿易した。
✔ アヘンの流入で清は財政難に陥り、国内にはアヘン中毒者が増大した。
✔ 清の政府がイギリス商人のアヘンを没収したことを口実に、イギリスは清にアヘン戦争をしかけた。