日本の歴史上最大規模の一揆と言われる島原の乱。
この乱は日本のその後の鎖国政策に大きな影響を与えました。
今回はそんな『島原の乱』がなぜ起こったのか、時代背景やその後など、わかりやすく解説ていきます。
目次
島原の乱とは
(島原の乱図屏風 引用元)
島原の乱とは、1637年(寛永14年)から1638年(寛永15年)にかけて肥前島原(現在の長崎県)と天草島(現在の熊本県)のキリスト教徒を中心とした農民が起こした一揆のことです。
起こった場所から天草の乱、島原天草の乱とも言われています。
過酷な年貢の負担やキリスト教弾圧に苦しんだ農民が天草四郎を中心として戦いましたが幕府軍に敗れ、多くの死者を出しました。
(天草四郎 出典:Wikipedia)
島原の乱が起こるまで。背景や原因
①キリスト教弾圧の始まり
島原の乱を起こした農民の多くはキリスト教徒であったと言われています。
その当時、日本にはキリスト教を禁止する禁教令が出されていましたが、まずはそのことについて触れていきます。
1596年にキリスト教迫害の始まりとなる最初の禁教令を出したのは豊臣秀吉です。
その目的としては「貿易を秀吉が管理できるようにするため」「神社や寺を守るため」など諸説ありますが、その頃はキリスト教徒に対する処罰などは行われず、江戸時代に入ってからも本格的な弾圧は行われていませんでした。
②江戸幕府によるキリスト教弾圧
禁教令が出されてからも布教活動は行われていました。
しかし、身分や階級がある幕府の制度『士農工商』に対し、キリスト教はすべての人が平等と考えていたため、幕府は次第に態度を硬化させていきます。
そんな中で1612年に慶長の禁教令が出され、教会の破壊と布教の禁止が命じられました。
その後キリスト教への弾圧は強まり、各地でキリスト教徒が処刑され、元和の大殉教などが起こります。
このようにキリスト教弾圧が急速に強まる中、島原の乱は起こったのです。
③島原藩主『松倉勝家』の悪政
島原の乱が起こった大きな原因は当時の島原藩の藩主である松倉勝家が行った悪政です。
元々島原はキリスト教徒が多く暮らす町でしたが、松倉重正が藩主となってからは島原城の改築などを理由に厳しく年貢を取り立て、島原藩の住民へ多大なる負担を強います。
その当時、場所によって納める年貢の量は決まっていましたが、必要以上の年貢を取り立てていたのです。
さらにキリスト教徒や年貢を納められない農民には残酷な拷問・処刑を行いました。
重正が亡くなった後、後を継いだ松倉勝家はさらに過酷な年貢の取り立てを行い領民を苦しめました。
1634年は悪天候から凶作が続き、飢饉が起こりましたが、勝家はあらゆる税を作って、容赦なく重税を取り立てます。
また多くの記録によると勝家は年貢を納められない農民や村の責任者である庄屋から人質をとりあまりにも残酷な方法で処刑を行っていました。
これらの重税と飢饉に耐えかねた島原藩の住民が遂に島原の乱を起こします。
島原の乱の内容
①日本で最大の一揆
島原の乱は日本の歴史上最大規模の一揆と言われています。
一揆とは農民などが年貢を減らすことや藩主の交替などを求めて、集団を作り武力によって反抗することや、その集団のことを言います。
凶作の時期など、食べ物が足りないときに起こることが多く、このときも天候不良による飢饉が原因にありました。
②島原の乱の始まり
(島原の乱の攻防)
島原藩の住民は密かに一揆を計画しており、また同時期に天草でも一揆が組織されて当時16歳であった天草四郎(本名は益田四郎時貞)を総大将として決起することを決めました。
そして1637年10月にとうとう島原の乱が勃発します。
数日後、天草でも住民の反乱が起こり、幕府が鎮圧に乗り出します。
島原・天草の両一揆軍は島原にある原城址に合流しましたが、その数は約37000人になると言われています。
③島原の乱の終わり
幕府軍は一揆軍に何度も攻撃をしかけますが、いずれも失敗しました。
島原の乱が始まってからから数か月経ち、幕府は作戦を兵糧攻めに切り替え、城にたてこもった一揆軍は徐々に食料や燃料が尽き始めます。
食料が尽き始めた一揆軍に対し、1638年2月に幕府は総攻撃を行います。
2月27日に総攻撃を開始し、日没までに原城はほぼ陥落、翌朝には乱は鎮圧されました。
これにより原城にいた一揆軍のほぼ全員が幕府によって殺され、中心となっていた天草四郎も亡くなりました。
島原の乱のその後
(一揆軍が籠城した原城址 出典:Wikipedia)
①松倉勝家の処分
島原の乱の後、松倉勝家の屋敷からは不審な遺体が多く見つかり、勝家は幕府から厳しい取り調べを受けました。
その結果、農民たちに必要以上の年貢を納めさせていたこと、厳しい拷問を行っていたことなどから島原の乱を引き起こした張本人として処罰されました。
②キリスト教徒の弾圧
また江戸幕府は島原の乱がキリスト教徒の暴動によって起こったとして、キリスト教を今まで以上に弾圧し始めます。
すでに述べたようにキリスト教はすべての人が平等という考え方であり、身分制度のある江戸幕府に対して庶民から反感が生まれるのではと幕府は恐怖を感じていたのです。
キリスト教徒は厳しく処罰されることとなりましたが、それでもこっそりとキリスト教を信仰する者はおり、その人たちのことを隠れキリシタンと言います。
江戸幕府はその隠れキリシタンを発見するために密告を奨励しようと報酬を儲けたり、イエス・キリストや聖母マリアが描かれた板を踏ませる踏み絵が行われました。
キリスト教徒に対しては残酷な拷問が多く行われ、江戸時代の長い間、弾圧は続きましたが、それでも島原・天草の地にはたくさんのキリスト教徒が隠れていたと言われています。
③鎖国の開始
島原の乱が与えたもっとも大きな影響は鎖国政策の開始です。
鎖国政策は江戸幕府が行った諸外国への政策のことで1639年から1854年と200年以上続くこととなります。
鎖国政策の目的としては幕府とは異なる考え方であるキリスト教を禁止すること、幕府が貿易を管理することを目的として行われました。
またキリスト教が入ってくることを防ぐために日本人の海外渡航も禁止、外国人の居留地も限定されていました。
キリスト教をもたらした宣教師の多くはポルトガルから来ていたため、1639年に江戸幕府はポルトガル船を追放し、このときから鎖国政策は始まったと言われています。
まとめ
✔ 島原の乱とは1637年にキリスト教徒を中心に起こった最大の一揆のこと。
✔ 島原の乱の原因は当時の藩主松倉勝家の悪政と飢饉、キリスト教の弾圧であった。
✔ 島原の乱をきっかけとしキリスト教弾圧はさらに強くなり、鎖国政策が始まった。