【石山合戦(石山戦争)とは】わかりやすく解説!!原因や経過・結果・その後など

 

室町時代末期~安土桃山時代の初期。

 

天下統一に野心を燃やす戦国武将織田信長が戦った相手、それは浄土真宗本願寺派!

 

日本各地に多くの信徒をもつ日本最大級の宗教勢力でした。

 

今回は、織田信長と浄土真宗本願寺派の戦い『石山合戦(いしやまかっせん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

石山合戦(石山戦争)とは

 

 

石山合戦とは、室町時代末期~安土桃山時代初期(1570年~1580年)天下統一を目指す織田信長と、巨大宗教勢力『浄土真宗本願寺派』の“ボス”顕如(けんにょ)との間で起こった戦いです。

 

別名『石山戦争』とも呼ばれています。

 

石山合戦が始まるまでの経緯・原因

(石山本願寺の復元模型 出典:Wikipedia

①石山合戦の原因

1570年から1580年まで11年間も続いた石山合戦の原因となったのは、摂津・石山(大阪)にあった浄土真宗本願寺派の本山「石山本願寺」。

 

信長はこの石山本願寺がものすごく欲しくて欲しくてしかたがありませんでした。

 

正確にいうと、石山本願寺の建つエリア一帯をどうしても手に入れたかったんです。

 

ではなぜ、信長は石山本願寺が欲しかったのでしょうか?

 

桶狭間の戦いで今川義元を倒し、天下統一を目指す信長は、当時経済の中心地として繁栄していた大阪に、ぜひとも天下を治める拠点をつくりたいと思っていました。

 

そのための立地条件がそろっていたのがここ!石山本願寺。

 

当時、石山本願寺のあった場所は、大阪の中でも国際貿易都市と繁栄していた堺の河口にある上町台地(うえまちだいち)でした。

 

この上町台地に城をつくれば、経済活動が活発な堺の市場から莫大な利益を得られるだけでなく、縦横に淀川と大和川が流れ、天然の要塞のような地形のため敵になかなか攻め込まれない守りの堅い、強靭な城ができます。

 

さらに、京都に住んでいる朝廷をけん制し、動きを監視することもできるという、軍事・政治・経済の全てにおいて都合のいい場所でした。

 

信長が石山本願寺の明け渡しを一方的に要求

(顕如"けんにょ" 出典:Wikipedia

 

 

石山本願寺を何が何でも手に入れたかった信長は、当時、石山本願寺の門主(=ボス)だった顕如に『石山本願寺から出ていき、信長に明け渡せ!』と一方的に要求してきました。

 

もちろん、『はいそうですか。』と顕如があっさり快諾するわけもなく、石山合戦が始まりました。

 

実は、石山本願寺を明け渡せという要求の前に・・・

信長から5000貫(現在のお金で約1億円ほど)の軍資金をよこせ!

浄土真宗本願寺派の信徒の動きを報告しろ!

顕如が信徒たちに命令を出す時には信長に許可をとれ!

など、理不尽な要求を受けていたので、ついに顕如も我慢ならなかったのかもしれません。

 

石山合戦の経過

浄土真宗本願寺派とは

怖いもの知らずの戦国武将、織田信長に戦いを挑むことになった顕如をリーダーとする浄土真宗本願寺派とは、どんな力をもっていたのでしょうか?

 

浄土真宗とは、鎌倉時代に親鸞が始めた仏教の宗派のひとつ。

 

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えるだけで、現世、来世の幸せを保証してくれるという手軽さから、苦しい生活を強いられていた農民を中心に信徒の数をどんどん増やしていきました。

 

その浄土真宗の中で最も力をもっていた宗派が本願寺派です。

 

本願寺派の信徒たちの結束は固く、全国各地の本願寺派の寺院を拠点に、その地域を治める大名といった権力者に対して反乱をたびたび起こし、恐れられていました。

 

そして、本願寺派の信徒たちによる反乱は「一向一揆」と呼ばれました。

 

信長を苦しめた一向一揆

石山合戦でも、本願寺派の信徒たちが各地で起こした「一向一揆」は信長を苦しめました。

 

三重の信徒たちが起こした長島一向一揆に始まり、近江一向一揆(滋賀)、越前一向一揆(福井)、加賀一向一揆(石川)と、各地で信徒たちは、信長へ戦いを挑み続けました。

 

 

中でも長島一向一揆は、信長が鎮圧するのに4年もかかったほど、熾烈な戦いが繰り広げられました。

 

石山本願寺への兵糧攻め

 

 

各地の一向一揆を鎮圧し、信長が石山本願寺への本格的な攻撃を開始したのは1576年のことでした。

 

石山合戦の開戦から6年後のことです。

 

ここでの難題は、四方を川で囲まれた天然の要塞である難攻不落の石山本願寺をどうやって攻め落とすのか?ということ。

 

そこで、信長のとった作戦は、兵糧攻め

 

兵糧攻めは石山本願寺に籠城する敵の食料を断つという作戦。

 

石山本願寺の場合、四方を川に囲まれ、船で食糧が運ばれてくるため、その運搬経路を断ち、降参させようとしました。

 

毛利氏の水軍VS信長軍

(石山合戦 画像引用元

 

 

信長の兵糧攻め作戦の前に立ちはだかったのは、顕如側についていた強力な水軍をもつ安芸(広島)の毛利輝元でした。

 

輝元は自慢の水軍、700800隻を送り込み、待ち構えていた織田の水軍300隻を追い払い、石山本願寺に食料を運び入れることに成功しました。

 

しかし、一度の敗戦であきらめないのが織田信長です。

 

毛利の水軍に勝利するため、用意したのが軍艦。長さ約22m、幅約13mの大型船を鉄板で覆い、大砲を装備した大きな軍艦を製造したのです。

 

この秘密兵器で再び毛利水軍と激突。ついに毛利水軍を撃破、それも圧勝というかたちで勝利しました。

 

石山合戦の終戦

ついに、信長の兵糧攻め作戦が成功。

 

石山本願寺は食糧不足となり、追い詰められた顕如は1580年に石山本願寺を信長に明け渡しました。

 

これにより、11年におよぶ石山合戦は終わりを迎えました。

 

石山合戦のその後

 

 

石山合戦終結後の1582年。

 

信長は、豊臣秀吉(当時・羽柴秀吉)が天敵、安芸の毛利氏と戦っていた戦場へと向かう途中、京都の本能寺に宿泊しました。

 

その際、家臣であった明智光秀が信長を自殺に追い込む、みなさんご存知の本能寺の変が起きました。

 

 

秀吉は信長の訃報を知り、毛利氏と和睦。

 

軍勢を引き上げたその足で明智光秀の討伐に向かい、倒します。

 

その後秀吉は、信長が喉から手が出るほど欲しかった石山本願寺の跡地に大阪城を築き、1890年、主君であった信長の悲願、天下統一を果たしました。

 

・・・そうなんです!現在の大阪城は、石山本願寺の跡地に建っているのです。

 

まとめ

 石山合戦とは1570年~1580年に起こった織田信長と浄土真宗本願寺派との戦いのこと。

 織田信長が浄土真宗本願寺派の本山、石山本願寺を手に入れようとしたことが戦いの原因。

 浄土真宗本願寺派は門主顕如をリーダーに各地で一向一揆を起こし信長と戦った。

 石山本願寺の立地、大阪の上町台地は難攻不落の天然の要塞といわれた。

 石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築城した。