【銀閣寺が銀ではない理由】なぜ銀箔が貼られていない!?徹底的に解説!

 

あなたは、京都が好きですか?

 

京都で金閣寺に行ったら、絶対に銀閣寺に参拝しよう!という旅行プランは絶対に建てがちですよね?(笑)

 

銀閣寺と言えば京都にある大変有名なお寺で、室町時代後期に隆盛した東山文化の代表的建築枯山水の庭園が有名な場所です。

 

そして、誰もが抱く疑問。

 

銀閣寺はどうして銀色でもないのに、銀閣寺なんて呼ばれているのでしょうか?

 

こういうことって、学校の授業じゃ教えてくれませんよね(泣)

 

今回は、銀閣寺が銀でない理由と、銀箔が貼られていない理由を、これまで飛び交っていた憶測と共に、徹底解説していきたいと思います。

 

銀閣寺とはどんな寺院か?歴史は?

(銀閣寺 出典:Wikipedia

 

銀閣寺の正式名称は、慈照寺・観音堂室町幕府8代将軍である足利義政によって1490に建立されました。

 

 

(足利義政 出典:Wikipedia)

 

 

当時の室町幕府は、度重なる戦により深刻な財政難に陥っていました。

 

しかし足利義政は、将軍職を息子に譲ると同時に隠居し、銀閣寺を建て始めるのでした。

 

隠居して、現実逃避の場所で風流な文化に親しみながら、余生を送りたいという気持ちもあったのでしょうね。

 

しかし、どうやらそれだけではなさそうな理由もあります。

 

足利義政の祖父は、金閣寺を建てた足利義満

 

 

(足利義満 出典:Wikipedia)

 

 

どうやら、室町幕府最盛期の時代を作り上げた祖父にあやかったのか、銀閣寺の建築は、金閣寺の舎利殿を模して造られたとされています。

 

今となっては真意は謎に包まれていますが、諸説では、この銀閣寺を足掛かりに政界に返り咲こうとしていたのでは?とも言われています。

 

更に足利義政の死の前年である1489年、9代将軍・足利義尚が病死。

 

この時、義政は妻の反対もありながら政治への復帰を目指したとも言われています。

 

しかし悲しいことに足利義政自身も病に倒れ、最終的には銀閣寺の完成を見ることなく、足利義政はこの世を去ってしまいます。

 

残念ながら、足利義政の死後は室町幕府と共に銀閣寺も衰退の一途をたどるのですが、これを救ったのは江戸幕府。

 

江戸幕府の援助を受け、銀閣寺は見事に復活をすることとなります。

 

江戸幕府の崩壊後は、明治維新での廃仏毀釈によって再び衰退をしてしまいます。

 

しかし、復興を遂げた銀閣寺は1994年に世界遺産として登録されることになりました。

 

銀閣寺が銀ではない理由【5つの仮説と答え】

 

 

何と、銀閣寺という名称は室町時代生まれではないのです!

 

実は、慈照寺が銀閣寺と呼ばれるようになったのは、江戸時代なんです。

 

このネーミングの由来は、足利義満の建立した金閣寺に対して呼ばれるようになったからなんだとか。

 

そうなると、そもそも銀閣寺に銀箔を貼る予定はあったのか、疑問が残りますよね。

 

これまで様々な憶測が飛び交っていましたが、実は2007年に行われた科学調査によって事実が明らかとなっています。

 

しかし、いきなり事実を述べては面白くないので、調査が行われる前に飛び交った憶測を5つご紹介していきたいと思います。

 

①室町幕府の財政難説

足利義政が銀閣寺を造ろう!と思ったとき、時代は応仁・文明の乱の直後の1482のことでした。

 

大きな戦乱が長引けば、必然的に幕府は財政難に陥ってしまいますよね。

 

この説は本来、計画として銀箔を貼りたいところだったものの、銀箔を貼るまでの資金繰りがうまくいかなかったのでは?というものです。

 

予算がないと建物前面に銀箔を貼ることはできませんし、そんなことをするなら復興事業や別のことに財政を回しますよね。

 

②銀箔を貼ろうとしていた矢先に足利義政が他界してしまった説

前述のとおり、足利義政は銀閣寺の完成を見ることなく、この世を去ってしまいます。

 

先ほどの財政難説もプラスして銀閣寺建設に回すお金もないから、義政が死んだことで銀箔を貼らなくても良いのでは?と考える人がいてもおかしくないですよね、という説です。

 

このように、当時の建設関係者の総合判断によって、銀箔が貼られなかったという説もありました。

 

③わざわざ銀箔を貼らなくても、外壁が光の加減で銀色に見えたからいらないよね?説

こんな強引な説もあったとは、ビックリですよね(笑)

 

室町時代の最盛期の象徴である、祖父が建立した足利義満の金閣寺を模して造ったのだとしたら、足利義政がそこを手抜きにしたっていうのも、考えにくいものですよね。

 

④やっぱり銀箔を貼っていたが、剥がれた説

室町時代以降は、戦国時代や安土桃山時代といった流れになりますが、時代的にも戦乱が多いだけでなく、京都という場所も戦乱多発地帯でした。

 

当時の首都ですから仕方ないですよね。

 

数多くの戦乱で銀箔が剥がれ落ちてしまい、そのまま貼り変えることなくおざなりになった、という説です。

 

でもそうなると、現在もなお金箔が貼り変えられている金閣寺があるのに、銀閣寺だけ貼り変えられていないというのも変な話ですよね。

 

⑤もともと銀箔を使う予定がなかった

金閣寺は政庁としても使用されていた政治の場でしたが、そもそもの銀閣寺のコンセプトは山荘でした。

 

前述でも、足利義政は隠居をした折に、銀閣寺の建設を始めたとご紹介しましたよね。

 

つまり銀閣寺は、政治よりも芸術を愛した足利義政の、政治からの現実逃避の場所なのです。

 

さらに、文献でも銀閣寺に銀をあしらう計画は発見されていないそうです。

 

ここまでくると、本当は何なのか、謎が深まるばかりですよね。

 

そろそろ答えを発表しましょう!

 

3. 答え:元々貼られてなかった

 

いろんな所説を紹介しましたが、2007年の学術調査で、ついに真実が判明しました。

 

外壁には銀箔が貼られた痕跡がないことが、この調査で判明するのです。

 

それに、ご紹介の通り足利義政の時代や江戸時代までの間には、「銀閣寺」という言葉自体も存在しませんでした。

 

結局のところ、元から銀箔は貼られておらず、内装・外装共に黒漆塗であったことが判明し、当初から銀箔を貼ろうという計画もなかったのではないかと考えられます。

 

また、足利義政の時代に隆盛した東山文化のコンセプトは禅宗の影響を受けた簡素な文化

 

これを考えれば、銀箔を貼ってしまうとコンセプトから逸脱してしまいますもんね。

 

まとめ

 銀閣寺の正しい名称は、慈照寺・観音堂で、東山文化の代表的建築と枯山水の庭園が有名な場所。1994年に世界遺産に登録されている。

 東山文化のコンセプトは、禅と簡素な文化。

 建設は室町時代8代将軍・足利義政で、祖父は金閣寺を建てた足利義満。

 銀閣寺のモデルは金閣寺の舎利殿。

 銀閣寺は政治よりも文化を愛する足利義政の現実逃避の場所で、山荘がコンセプトだった。

 銀閣寺というネーミングは、江戸時代に発生。金閣寺に対比してそう呼ばれるようになったとされている。

 銀閣寺に銀箔が貼られていない理由については、様々な諸説が飛び交っていた。

 2007年の科学調査によって、外壁には銀箔が貼られた痕跡がないことが判明。

 当初から銀箔を貼る予定がなかったと考えられている。