江戸時代初期に、幕府によるキリスト教への大弾圧がありました。
その中でも、幕府が初めて大々的にキリスト教信者たちを弾圧したのが、元和の大殉教です。
今回は、そんな『元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)』についてわかりやすく解説しています。
目次
元和の大殉教とは?
(徳川秀忠 出典:Wikipedia)
元和の大殉教とは、1622年(元和8年)に将軍徳川秀忠の命令により、長崎の西坂でキリスト教信者55名が火あぶりと斬首の刑にされた事件のことを言います。
日本ではキリスト教信者が迫害されるという歴史がありますが、その中でも一番多くの信者が同時に処刑された事件でした。この後、幕府のキリスト教信者の弾圧はさらに強められていきます。
オランダの商人やイエズス会宣教師によって、海外にも知らされ、日本の中でも「26聖人の殉教」と共に、よく知られた殉教事件と言えます。
元和の大殉教が起こった背景・原因
(26人の処刑を描いた1862年の版画 出典:Wikipedia)
江戸幕府は、豊臣秀吉の時代から続くキリスト教禁止令を受け継いでいました。こうした政策の中で、元和の大殉教は起こったのです。
①26聖人の殉教
1597年2月5日に豊臣秀吉の命令により、26人のカトリック教信者が長崎で処刑されました。
この事件は、日本で初めて最高権力者がキリスト教への信仰を理由に処刑を行った事件でした。後に、処刑された26人はカトリック教会により「聖人」となりました。
26人中20人が日本人。その他は、スペイン人やポルトガル人などの司祭や修道士でした。日本人の中には、19歳、14歳、13歳、12歳という若い信者もいました。
この事件当時、秀吉はフランシスコ会というカトリック教の修道会の布教活動が挑発的であるとして、フランシスコ会の修道士や信者を捕らえて処刑するようにと命令したのでした。
②幕府のキリシタン対策「禁教令」
秀吉は、1587年に禁教令というキリスト教を禁止する法令を出しました。
江戸幕府は1600年代始め、キリスト教を弾圧するという態度は取っていませんでした。秀吉が処刑をしたフランシスコ会も、徳川家康や徳川秀忠と面会して、東北地方への布教活動を行っていました。
ところが、幕府の支配体制に入ることを拒み、活動が活発になってきたキリスト教に幕府は脅威を覚え始めます。そして、1612年に幕府直轄地に対して、1613年には全国に教会の破壊とキリスト教の禁止を命令する禁教令を出しました。
この禁教令で、修道会士や主なキリスト教信者たちが国外追放されましたが、処刑といった厳し罰はなく、キリスト教の普及は続いていました。
特に、京都には京都所司代の板倉勝重がキリスト教信者に好意的であったため、キリシタンが多くいました。
(板倉勝重 出典:Wikipedia)
ところが、1619年に秀忠が改めて禁教令を出すと、板倉は黙認できずにキリシタンを牢屋へ入れます。秀忠は、そのキリシタン52名を火あぶりの刑にするように命令するのです。これが京都の大殉教と呼ばれる事件です。
③弾圧の引き金へ「平山常陳事件の発生」
1620年に、平山常陳が船長をする朱印船が台湾近くでイギリスとオランダの艦船に捕らえられ、長崎の平戸に入港します。イギリスとオランダの主張は、朱印船の中に二人のスペイン人キリスト教宣教師を乗せているということでした。
平戸藩主や長崎代官、長崎奉行の取り調べでは、二人の宣教師は商人であると言って、疑いを逃れようとしましたが、2年間に及ぶ調査、拷問や証言などにより、二人は自分が宣教師であると告白。結局、平山常陳と二人の宣教師は火あぶりの刑となりました。
当時、アジア海域でイギリスとオランダ、スペインとポルトガルが権力争いをしていたことが背景にありますが、この事件は幕府にキリスト教への不信感を決定づけることになります。
元和の大殉教の内容
(元和大殉教図 出典:Wikipedia)
平山常陳事件による処刑が行われた翌月に、元和の大殉教は起こります。
キリスト教への不信感が募り、幕府が大弾圧へと踏み切る第一歩の象徴的な事件でした。
①処刑された場所
幕府は、かねてから捕らえられていた宣教師や司祭、修道士、キリスト教信者たち、また彼らをかくまっていた者たちも含めて55名を長崎の西坂で処刑します。
この長崎の西坂は丘になっており、26聖人の殉教でも信者たちが、キリストが十字架にかけられたゴルゴタの丘に似ているということで、そこで処刑されることを希望したと言われた場所でした。
現在、西坂公園には、26聖人の殉教地として記念碑と記念館が建てられています。
(日本二十六聖人記念碑 出典:Wikipedia)
また、ローマ教皇によって、カトリック教徒の公式巡礼地と指定されています。
②火刑された者たち
元和の大殉教で火刑された者は、25名でした。その中には、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9名と修道士数名がいました。
イエズス会のカルロ・スピノラ神父は、科学と数学に詳しく、長崎で日本初の月食の科学的観察を行い、緯度を測ったことで知られています。
(カルロ・スピノラ 出典:Wikipedia)
火刑された者の中には、唯一の日本人女性もいました。ポルトガル人と結婚して、キリシタンとなった80歳ぐらいの女性でした。
③斬首された者たち
残る30名は斬首の刑に処されました。30名はほとんど日本人でしたが、その中にポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人イザベラと4歳になる息子イグナシオもいました。
ドミンゴスは、スピノラ神父をかくまったとして逮捕され処刑されていました。元和の大殉教では、その夫人と息子も処刑されたのです。
また、処刑された者の中には3歳、4歳、5歳といった幼い子どもたちがいて、女性も多くいました。それは、宣教師や修道士をかくまった信者一家が全員捕らえられたからなのです。
元和の大殉教のその後の影響
元和の大殉教が行われた後、幕府のキリスト教対策、また西欧諸国との関わりはどのように変化したのでしょうか。
①殉教の絵
元和の大殉教の処刑を見ていた修道士が、西洋絵画を学んでいたため、処刑の様子をスケッチし、マカオで完成させた絵がローマに送られました。
その絵は「元和大殉教図」として、知られています。ローマのジェズ教会に保管され、今でも殉教の様子をまざまざと伝えています。
そして、1868年にはローマ教皇により、処刑された55名は聖人に次ぐ福者の位を与えられました。こうして、この事件は海外でもよく知られた殉教事件となっているのです。
②幕府のキリシタン対策が厳しくなる
元和の大殉教の後も、幕府によるキリスト教弾圧は激しくなっていきました。1623年には江戸で55名、1624年には東北で108名、平戸で38名の公開処刑が行われました。
また、拷問による転向も広く行われるようになります。転向とは、キリスト教を棄てるということです。さらに、拷問による入信者の密告(キリシタンの発見)や入信を防ぐことを広く推し進めていきました。
幕府の厳しいキリシタン対策は、他の国では見られない徹底したものでした。
一方で、こうした幕府の弾圧がヨーロッパに知られることになり、逆に宣教師たちの布教熱を引き起こしたとも言われています。
その後も、宣教師たちが日本への潜入や潜伏を試みることが続きました。
③島原の乱の発生
幕府が推し進めていたキリシタン対策にも関わらず、1637年に島原の乱が起こります。
これは島原藩と唐津藩(現在の長崎県島原市と佐賀県唐津市)にまたがって起こった一揆のことで、この地域に住む民衆が過酷な年貢負担やキリスト教迫害、飢饉の被害のために、藩に対して反乱を起こしたのでした。
島原はキリスト教の盛んな土地で、反乱軍はキリスト教信者の間でカリスマ的人気のあった16歳の少年天草四郎を大将として決起しました。
反乱は約半年後には鎮められますが、1年半後にポルトガル人は日本から追放され、本格的な鎖国政策が始められます。
まとめ
✔ 元和の大殉教とは、1622年9月10日徳川秀忠により、キリスト教宣教師や司祭、信者55名が処刑された事件である。
✔ 江戸幕府は、豊臣秀吉から続く禁教令を出していた。
✔ 1620年に起こった平山常陳事件は、幕府にキリスト教への不信感を決定づけ、その後の大弾圧へとつながる事件であった。
✔ 元和の大殉教の後、幕府はさらに弾圧を強め、拷問などにより密告や転向をさせる政策を推し進めていった。
✔ 1637年に起こった島原の乱はキリスト教信者たちの反乱でもあり、幕府の鎖国政策に影響を与えた。