【嘉吉の乱(嘉吉の変)とは】わかりやすく解説!!きっかけや内容・影響など

 

世の中なにかと恐怖で政治を支配しているとのちにツケが回ってくることがしばしばあります。

 

嘉吉の乱もそんなツケが回ってきた例の一つでした。

 

今回は『嘉吉の乱(嘉吉の変)』についてわかりやすく解説していきます。

 

嘉吉の乱とは

 

 

嘉吉の乱とは、1441年に赤松満祐という守護大名が当時の将軍であった足利義教を暗殺した事件のことです。

 

この事件によって、室町幕府における将軍の立場が弱まり、守護大名が台頭していくようになりました。

 

くじ引き将軍足利義教

(足利 義教 出典:Wikipedia

①そうだ。クジ引きで決めよう 将軍義教の誕生

室町幕府が成立してから約50年。室町幕府第4代将軍足利義持は息子であった足利義量が20歳で亡くなった後将軍代行を務めていました。

 

しかし、1428年にその義持も亡くなると、室町幕府の中ではあるトラブルが生まれてしまいます。

 

実は後継者争いが起きないように室町幕府のしきたりとして嫡男以外の男子はみんな出家しなければいけないとなっていました。しかし、その嫡男が亡くなっていたため出家していない後継者がいません。

 

悩みに悩んな家臣たちは仕方なく出家していた義持の4人の息子から選ぼうとします。

 

しかし、その選び方が独特でなんと将軍をクジ引きで決めるという形となりました。(クジ引きといっても今みたいな形ではなく、神様の前で決めるという形でした。)

 

その結果、比叡山にいた義円が還俗(お坊さんをやめること)をして義教は室町幕府6代将軍に就任しました。

 

②万人恐怖 義教の焦りと独裁政治

こうして将軍となった足利義教。しかし、元々後継者になることができない身分であり、さらにその将軍の決め方がまさかのクジ引きという形であったため義教は『クジ引き将軍』と馬鹿にされることがしばしばありました。

 

義教は「このままでは将軍が舐められてしまい守護大名の力がどんどん強くなってしまう!」と思い、守護大名の力をどんどん削いでいき、将軍の権力強化を目指していきます。

 

義教がまず取り組んだのが後継者決めの介入でした。

 

義教は守護大名の中でも特に権力があった三管領である斯波家・畠山家や、四職である京極家・山名家の後継者決めに介入して将軍よりの考えを持っている人を当主にさせようとします。

 

さらに1439年に起こった永享の乱で将軍の命令に無視し続けていた鎌倉公方である足利持氏を自害に追い込み、鎌倉府を廃止して権力の範囲を拡大させます。

 

こうして将軍の権力の強化に努めていった義教ですが、その政治のやり方はどんどん苛烈なものとなっていき、独裁政治と呼ぶまでに発展してしまいます。

 

些細ななことで守護大名を取り潰しにすることは当たり前。さらに守護大名だけではなく朝廷や公家にも及び、公家の領地(荘園)を没収されたり、中には暗殺された人もいました。

 

さらには元々修行していた比叡山延暦寺とも対立。武力を使って延暦寺をねじ伏せ従属させますが、これに抗議した僧侶達が延暦寺の根本中堂を焼き払って自殺したりしていました。

 

そしていつしかこの苛烈な義教の政治のことを民衆の間では『万人恐怖』と呼ばれていくことになります。

 

嘉吉の乱のきっかけ&全容

 

(赤松氏の家紋 Wikipedia

①赤松家の焦り

守護大名の力を弱めまくり、もはや敵なしの義教でしたが、これに焦りまくっていた守護大名がいました。

 

義教の手によって三管領と四職と守護大名は続々と義教によって被害を受けていましたが、唯一この時まで無事だったのが赤松家でした。

 

赤松家は播磨(兵庫県)・備前・美作(岡山県)などを中心に治めている守護大名で四職の一つでしたが、義教はついにこの赤松家にも首をつっこんでいきます。この時の赤松家の当主は赤松満祐という人でしたが、義教はこの人とはちょっと仲が悪い。そこで義教は赤松家の領地の播磨国を没収し、代わりに自分の1番のお気に入りであった従兄弟に与えようとしたのです。

 

満祐はもしかしたら暗殺されてしまうという危機感を覚え始め、播磨に戻り将軍に対して戦の準備を始めますが、守護大名のとりなしによってなんとか戦を起こすことはありませんでした。

 

しかし、直後に赤松満祐の弟の領土が没収されたり、同じく四職であった一色家や有力守護大名の一つであった土岐家の当主を暗殺するなど、を行い、巷では赤松家自身が取り潰しされてしまうという噂が流れました。

 

「このままではヤバい!あっさりと領地をぶんどられるぐらいなら...」満祐はついに覚悟を決め、将軍暗殺を決意します。

②将軍義教の暗殺決行

 

 

1441年、赤松家はこの頃関東で起きていた結城合戦の勝利のお祝いの宴会で、義教を自宅に招きました。

 

義教は赤松が急に媚び始めてきたとほくそ笑見ますが、実はこれは暗殺するための罠だったのです。

 

そして宴会がピークに差し掛かった瞬間突如屋敷中の門が閉鎖され赤松家の家臣たちが宴会に乱入。宴会に参加していた大名たちが大混乱に陥っている中、家臣は逃げようとしていた義教を斬り殺し、暗殺してしまいました。

 

ちなみに、暗殺された将軍は今まで四人いるのですが、(鎌倉幕府第2代将軍源頼家、第3源代実朝 室町幕府第6代足利義教、第13代足利義輝)あまりにも義教が恨まれていたのでしょう。

 

あの暗殺の時に義教を助ける人はおらず、さらに公家たちはこの義教の暗殺に大喜び。公家の日記には将軍の死に方としてはあり得ない『犬死』と書かれボロカスに言われていました。

 

嘉吉の乱のその後の影響

①室町幕府の衰退と守護大名の台頭

嘉吉の乱によって将軍が暗殺されたという報告は幕府内でとんでもない影響を及ぼしています。

 

それは将軍にふさわしい人がもういなかったということ。それもそのはず、義教の弟である義持の息子は他に3人いましたが、その人たちは義教によって殺されるか、自害していました。

 

幕府サイドは一応義教の息子である足利義勝を9歳で将軍職につけます。

 

(足利 義勝の坐像 出典:Wikipedia

 

 

しかし、わずか9歳の子供に政治なんてできるはずもなく、室町幕府は赤松家を滅ぼした山名家や畠山家などの管領たちが行うことになります。

 

管領は義教によって没収された守護大名の領地を再び与え、これ以降守護大名の権力が幕府と肩を並べるまでに増大していきます。

 

さらに悪いことに、将軍就任後から2年後に義勝は病死。弟である義政が8歳で第8代将軍に就任します。

 

そして時代は山名家と細川家の二大守護大名の時代へと移り変わり、そして応仁の乱へとつながっていくのです。

 

②赤松家のその後

赤松満祐は義教を暗殺した後自分の領地である播磨に帰り、幕府からの攻撃に備え始めます。

 

しかし、赤松家は山名家を中心とする幕府軍によって攻められ、満祐は自害してしまい、赤松家は一旦滅んでしまいました。

 

ちなみに赤松家の領地はほとんどが山名家に与えられ、山名家が治めている領地は8ヶ国になり、かつて第3代将軍である義満の頃から力をなくしてい六分の一衆とよばれていた山名家が復活しました。

 

一方赤松家はバラバラになってしまいましたが、1443年に三種の神器が奪われるという事件が起きた時に赤松家の家臣たちが大活躍。大手柄を挙げた赤松家は加賀国の守護になり赤松家はなんとか守護に返り咲くことができました。

 

まとめ

・嘉吉の乱とは将軍である足利義教が赤松家の赤松満祐によって暗殺された事件のこと。

・足利義教は苛烈な独裁政治を行っており、そのやり方は万人恐怖と恐れられてきた。

・嘉吉の乱以降将軍の立場が落ちていき、守護大名の権力が増大してしまう結果となった。