モンゴル帝国が日本に初めて攻めてきた『文永の役』から7年後、再びモンゴル帝国の元軍は日本に侵攻してきます。
今回はこの2度目の元軍による侵攻『弘安の役(こうあんのえき)』について、わかりやすく解説していきます。
目次
弘安の役とは
(弘安の役 出典:Wikipedia)
鎌倉時代中期、モンゴル帝国の元軍が2度にわたって日本へ侵攻してきた事件を「元寇」もしくは「蒙古襲来」といいます。
その2度目になる1281年(弘安4年)6月から8月にかけての、モンゴル帝国の元軍と支配下にあった高麗王国(朝鮮)・旧南宋(中国の南側にあった王朝)の軍の日本への侵攻を「弘安の役」といいます。
当時の鎌倉幕府の執権は、北条時宗でした。
弘安の役が起きるまで
(文永の役 出典:Wikipedia)
モンゴル帝国による1度目の日本侵攻、文永の役が起きてから7年の月日の間、モンゴル帝国と日本、それぞれに動きがありました。
①文永の役
当時中国からヨーロッパまでを支配下にしていたモンゴル帝国は、日本も支配下にするために「モンゴル帝国の支配下になりなさい」という内容の国書を日本へ送りました。
日本はこの国書を無視し続けたため、モンゴル帝国の元軍とその支配下にあった高麗軍が日本に侵攻してきたのです。
これを「元寇」もしくは「蒙古襲来」といい、その1度目にあたる1274年の日本侵攻とその戦いを「文永の役」といいます。
文
永の役では日本側がなんとか勝利し、元軍を退けることができました。しかし、元軍は1度では諦めませんでしたし、日本も「元軍はまた日本を襲ってくるだろう」と予測していました。
②元寇防塁と高麗征伐計画
(元寇防塁 出典:Wikipedia)
また元軍が日本へ侵攻してくるかもしれない。そう考えた執権に北条時宗は、約20キロメートルに渡る博多湾沿岸に「元寇防塁(石築地)」を作らせました。
石を積み立てられて作られた防塁は、高さは約2メートル、厚さは約3メートルというとても大きいものでした。この防塁は、現在も博多市内に残されています。
また、鎌倉幕府は文永の役で襲撃された高麗へ逆に襲撃しようという高麗征伐計画を企てていました。博多に軍勢や船を集結させたのですが、突然、この計画は白紙に戻ってしまいました。
詳しいことは未だ不明ですが、考えられる原因としては、元寇防塁を作るのに想像以上のお金と人を必要としたことや、船が足りなかったことなどが挙げられます。
高麗征伐計画を諦めた鎌倉幕府は、九州の御家人たちに「異国警固番役」を命じます。元軍がまた襲ってくるかもしれない博多湾などの沿岸を3ヶ月交代で警備するようにしました。
③元の動き
(クビライ・カアン肖像画 出典:Wikipedia)
元の皇帝・クビライは日本の侵略を諦めてはいませんでした。
クビライは文永の役の翌年、杜世忠という元の官僚の使節団を日本へ送りました。日本にもう一度、自分たちの支配下に入れと言いに行くためです。
しかし、日本にやってきた杜世忠たちを、幕府は斬首の刑に処してしまいます。幕府はこの使節団を日本の情報を盗もうとしたスパイだと判断したからです。
1276年になると、元はずっと戦っていた南宋(中国の南側にあった王朝)を降伏させます。このとき、クビライは続けて日本に攻め入ろうとしましたが、部下に止められ、日本への侵攻は延期されました。
1279年、元は再び日本へ使節団を送りましたが、この使節団も博多で斬首に処されてしまいます。元には杜世忠の使節団が処刑されたことも、このときはまだ知らされていませんでしたが、2ヶ月後に杜世忠の使節団が処刑されたと知らされます。
自分の国の使節団が殺されたとなっては、元軍は当然怒ります。元軍のなかで「日本を討て!」という空気が高まるなか、日本との戦いの準備は着々と進んでいました。
弘安の役のはじまり
(東路軍目指して進軍する日本軍 出典:Wikipedia)
1281年(弘安4年)6月、元・高麗・旧南宋の軍が再び日本へやってきます。
①東路軍との戦い
弘安の役では、元軍と高麗軍の連合軍を「東路軍」、元が支配した旧南宋の軍を「江南軍」とよびます。
東路軍は兵士が約40000〜57000人、軍船が900艘。江南軍は兵士が約100000人、軍船が3500艘という数で、この艦隊は史上類をみない、世界史上最大規模の艦隊でした。この艦隊が、みんな日本を目指してやってくるのです。
東路軍はまず対馬・壱岐島を経て、文永の役と同じく博多湾に上陸しようとします。当初の予定では、江南軍と壱岐島で合流し、一緒に大宰府を攻める予定だったのですが、対馬で捉えた日本人に「日本の軍はすでに大宰府から移動している」という情報を聞き出したので、江南軍の到着を待たずに博多湾に上陸しようと決めたのです。
しかし、この情報は実はフェイクで(東路軍を騙すために嘘をついたかは不明)、大宰府には多くの武士が、元軍がくるのを待っていました。そして何より、7年前には何もなかった沿岸に大きな石の壁ができていることに驚いたはずです。
「これでは上陸できない!」と判断した東路軍は上陸を諦め、陸と繋がっている志賀島に上陸します。しかし、日本軍は東路軍に対して夜襲を行い、夜が明けても日本軍が優勢でした。特に、伊予(現在の愛媛県)の御家人・河野通有は、弓の攻撃を受けながらも元軍の将校を生け捕るという手柄を立てました。
この志賀島の戦いで負けてしまった東路軍は、おとなしく壱岐島へ戻り、江南軍の到着を待つことにしました。
②台風と元軍の撤退
圧倒的な数を誇る江南軍を待つ東路軍ですが、約束の日付になっても江南軍は現れません。加えて、東路軍で疫病が流行ってしまい、3000人あまりの死者が出てしまいました。
そして、壱岐島に日本軍が総攻撃を仕掛けてきました。この壱岐島での戦いで日本軍に押されていた東路軍は「江南軍が平戸島に到着した」という知らせを聞きつけ、すぐに平戸島へ移動します。こうしてようやく、東路軍と江南軍は合流することができました。
しかし、ようやく合流できた東路軍と江南軍でしたが、夜中に大型台風がやってきて、元軍側の船の多くが沈没してしまいました。東路軍が博多湾に侵入してきてから、約2ヶ月後のことでした。
多くの兵も船も失っては、もはや戦争どころではありません。元軍は話し合いの末、日本からの撤退を決めました。
③その後の戦い
撤退をする元軍をみすみす見逃すはずもなく、日本軍は伊万里湾にいた元軍に対して総攻撃を仕掛けます。
肥後(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長が先陣をきって攻撃し、伊万里湾に残っていた元軍の船を残らず追い払ったといいます。
(竹崎季長 出典:Wikipedia)
また、伊万里湾にある鷹島には、10万人あまりの元軍の兵士が置き去りにされていました。兵士たちは自分たちで船を作って国に帰ろうとしましたが、日本軍はこれも見逃さず、鷹島の元軍にも総攻撃を仕掛けます。
結果、10万人あまりの元軍は討たれ、元軍の兵士を2〜3万人捕虜にしたといいます。こうして、弘安の役での戦いは全て終わったのでした。
弘安の役のその後
元軍に対して勝利した日本でしたが、文永の役と同じように、武士への褒美が足りていませんでした。
①恩賞地不足
鎌倉時代、武士は戦いで活躍すると、幕府から褒美として「恩賞地」という土地をもらっていました。
この土地をもらうために、武士たちは幕府のために頑張って戦うのです。普通、国内で起きた戦いなら、負けた方の土地を奪って、勝った武士にその土地を分け与えれば良いのですが、今回の元寇に関しては、日本が勝利しても、得られた土地や財産は何もありません。
そのため、特に活躍した九州の御家人に与える恩賞地が不足し、御家人たちは不満を募らせていました。
しかも、弘安の役が終わったあとも行わなければいけない警備のため、御家人たちは資金不足に困ってしまいました。
②鎮西探題
弘安の役が無事日本の勝利で終わっても、またいつ元や他の国が日本に攻めてくるかはわかりません。
そのため、文永の役のあとに幕府がつくった異国警固番役はそのまま九州の御家人たちが続けることになりました。
九州の御家人は、元寇が起こる前までは裁判を行うときなどは幕府のある鎌倉や朝廷のある京都にわざわざ足を運んでいました。しかし、そのたびに九州の警備がおろそかになってしまってはいけないと考えた幕府は、九州に「鎮西探題」という機関をつくりました。
鎮西探題では、九州での裁判を中心に行政や軍事のことを執り行いました。しかし、こうした幕府の取り組みが、九州の御家人たちに「鎌倉の北条氏に支配されている」と感じさせてしまい、徐々に信頼を失ってしまいました。
そして、鎌倉の北条氏が滅亡するとともに、鎮西探題も1333年(元弘3)に滅亡しました。
まとめ
・2度目の元寇になる元軍と高麗軍・旧南宋軍の日本への侵攻を「弘安の役」という。
・約20キロメートルに渡る博多湾沿岸に「元寇防塁(石築地)」を作らせた。
・幕府は2回来た元からの使節団を処刑した。
・弘安の役での元軍と高麗軍の連合軍を「東路軍」、旧南宋の軍を「江南軍」とよび、世界最大規模の艦隊だった。
・日本優勢のまま戦いは進み、夜中に大型台風がやってきて、元軍側の船の多くが沈没したため、元軍は撤退した。
・戦いで活躍した御家人には十分な恩賞地が与えられなかった。
・異国への警備に集中できるように、九州に「鎮西探題」が置かれた。