時は、江戸幕府末期の1862年。
日本は開国されて8年経ち、開港された横浜には外国人居留地も設けられ、多くの外国人商人たちが貿易のため住んでいました。
勢力をなくしていた幕府は、アメリカ・イギリスなどからの要求に従うばかりで、それをよく思っていない朝廷、朝廷を後押しする薩摩藩などがいました。
こうした状況を背景に「生麦事件」は起こりました。
今回は、「生麦事件」とは、どういう事件だったのか、犯人や被害者、薩英戦争への流れをわかりやすく解説します。
目次
生麦事件とは
(明治になって想像で描かれた生麦事件 出典:Wikipedia)
①事件の内容
1862年(文久2年)8月21日、江戸へ出向いていた薩摩藩主島津茂久の父、島津久光の一行が江戸から京都へ帰るために東海道を大名行列していたのです。
その行列の中に、馬に乗ったイギリス人4名が行列の反対から列を割くようにして入ってきました。
藩士たちは4名に列の外に出るように手振り身振りで指示しましたが、理解できなかった4名はそのまま列の中を通って行きました。
4名が島津久光の駕籠の近くに来た時、一人の藩士が4名に斬りつけたのです。そして、1名が死亡、2名が重傷を負うことになりました。
②事件が起きた場所
(事件当時の生麦村)
生麦事件が起きた場所は、当時武蔵国橘樹生麦村と言われた場所で、現在でいうと、神奈川県横浜市鶴見区生麦です。
当時は京都など西日本から江戸にのぼる際、東海道筋となっていました。
生麦事件で殺害されたイギリス人のチャールズ・レノックス・リチャードソンが倒れた場所に、今でも石碑が残されています。現在の京急本線、生麦駅の近くです。
(明治16年 生麦事件之碑 出典:Wikipedia)
また、地元住民が事件の貴重な資料を残そうと建設した「生麦事件参考館」は、2014年に残念ながら閉館となってしまいましたが、閉館となっても参考館はそのまま残っていますので、興味がある方は連絡を取ることが可能です。
③犯人と被害者たち
生麦事件が起こった時、島津久光一行は400人もの藩士を伴っていました。
その中の誰がリチャードソン殺害の犯人だったのでしょうか?
最初に一撃を与えたのは奈良原喜左衛門とされています。さらに、逃げる途中で斬りつけたのは久木村治休、そして、介錯のつもりで最後のとどめをさしたのは海江田信義でした。
一方の被害者は、横浜で商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルのいとこのマーガレット・ボロデール夫人、そしてリチャードソンでした。
ボローデル夫人は香港在住、リチャードソンは上海で長年商人をしており、2人とも横浜には観光でやってきていました。
生麦事件のその後
①日本の反応。幕府は、薩摩藩はどう動いたか。
当時の幕府はすでに勢力を失っていました。島津久光一行が江戸へのぼったのは、開国以来の混沌とした政治情勢に対応するため、幕府内の一連の改革を行なう目的があったのです。
つまり、薩摩藩の藩政の舵を取る久光が700人の軍勢を率いて、その圧力のもとに改革を行なったようなものでした。
それを快く思わないものたちが幕府内にいるのは当然のことでしょう。
そのため、生麦事件を起こした薩摩藩に対して、「幕府を困難に陥れるために、外国人を斬りつけたのだ」と、薩摩藩に対する敵意を持つ幕臣が多く、イギリスを怖れるばかりで何も対策を出すことができないでいました。
一方、薩摩藩は「足軽が外国人をいきなり斬りつけて、逃げて行った」と、しらを切り続けたのです。
幕府の弱腰な態度とは裏腹に、東海道筋の住民たちは、久光一行を歓迎しました。開国以来居留している外国人たちに辟易していたのでしょう。
②イギリスの反応。外交か報復か。
生麦事件は個人が外国人を斬りつけた事件とは異なり、島津久光が暗黙の了解をした中で起こった外国人殺害事件でした。
各国の大使などは、イギリスの対処策に誤りがあれば、戦争につながりかねないと怖れていたのです。
生麦事件の後、横浜居留民の中には武器を取り、報復を叫ぶものもいました。
イギリス代理公使のジョン・ニール中佐は、現実的にイギリスの戦力不足や全面的な戦争になることへの不利を説いて、終始幕府との外交交渉を貫く姿勢を取っていました。
③海外の反応。イギリスへの同情?それとも日本に正当性があるのか?
生麦事件は、日本側からすると大名行列の中に馬に乗った外国人が割り込んでくる「不作法」が原因で起きた事件です。
外国人側からすれば、薩摩藩士の取った行為は行き過ぎた行為で、残忍な行いと言えます。
ただ、海外の反応はイギリス人4名に非があるという意見でした。
事件後に出た「ニューヨークタイムズ」紙では、リチャードソンが日本の主要な道路で日本の主要な大名に無礼をしたと、リチャードソンたちを非難しています。
事件のあった日に同じ東海道にいたアメリカ人商人は、久光の一行が来ると馬から降りて道の脇にどき、一行に一礼をしたといいます。
日本の「サムライ」がいかに誇り高く、その誇りがいったん傷つけられると、非情な行いをすることは有名でした。
生麦事件から薩英戦争への流れ
①事件後、イギリスの外交交渉
事件から約半年がたった1861年の1月、イギリス本国からニール中佐に届いた指令は、幕府と薩摩藩に賠償金を請求するというものでした。
それぞれ幕府に10万ポンド、薩摩藩には2万5千ポンドを賠償金として払ってもらうという内容だったのです。
幕府以外にも直接薩摩藩に賠償金を請求したのは、薩摩藩には幕府の力が及んでいないという、イギリスの判断でした。
そして、同年6月24日イギリスは幕府から賠償金10万ポンドを受け取ります。幕府は、イギリスだけでなく、アメリカ、フランス、オランダの四か国の艦隊が横浜に入港し、軍事的圧力を受けていました。
イギリスは、今度は薩摩藩と交渉するために軍艦7隻を鹿児島湾に向けます。
②薩英戦争のきっかけ
鹿児島湾に入港したイギリス艦隊を薩摩藩の使者が訪れます。そこで、イギリスは国からの通達を渡します。そこには、生麦事件の犯人の逮捕と処罰、被害者遺族への賠償金2万5千ポンドの要求が書かれていました。
しかし、薩摩藩はそれへの回答をせず、鹿児島城内での会談を提案。それに対し、イギリスは全面拒否で先の通達の要求を再度求めました。
薩摩藩は一貫して「生麦事件の責任はない」と主張して、両国の交渉は平行線をたどります。結果イギリス側は、この状況を見て交渉を有利にするために、薩摩藩の船を掠奪します。
それに激高した薩摩藩はイギリス艦隊を砲撃し始め、薩英戦争が勃発するのです。
③事件が与えた影響
薩英戦争は、大きな被害を被ったイギリス艦隊が横浜港に帰ることで終結しました。
生麦事件は全世界に日本人の誇り高さを印象づけました。そして、薩英戦争から、日本の軍事力の高さを全世界に見せつける結果となり、「日本を侮れない」という認識を持たせることになったのです。
国内では幕府の外国言いなりの態度が、さらに勢力を弱体化させます。その反面、薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにした薩摩藩は、一転イギリスから最新の技術を学ぼうと、イギリスと和解していく姿勢になります。
こうした流れは、倒幕、日本の近代化の流れを高めていくことにつながりました。
生麦事件は日本の近代化を語るうえで、大きな影響を及ぼした事件だったのです。
まとめ
・生麦事件とは、幕末当時薩摩藩士がイギリス人3名を殺傷した事件である。
・事件後、幕府はイギリスに要求されるままに賠償金を支払う。
・薩摩藩は、一貫して非はイギリス側にあると主張する。
・生麦事件から薩英戦争が勃発することとなる。
・生麦事件は、倒幕、近代化という日本の大きな歴史的転換のきっかけとなった事件と言える。