【廃藩置県とは】簡単にわかりやすく解説!!目的・実効までの流れ・影響など

 

今の日本は都道府県というものがありますが、都道府県が置かれたのは明治時代のことでその前は藩が点々と存在している状態でした。

 

一体なんで都道府県ができたのでしょうか?

 

今回は都道府県が誕生する『廃藩置県』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

廃藩置県とは

(廃藩置県 出典:Wikipedia

 

 

廃藩置県とは、1871年(明治4年)地方統治のためにそれまであった『藩』を廃止し、『県と府』を設置する改革のことです。明治政府によって行われました。

 

ここからは、廃藩置県の目的・実効までの流れ・影響などについて、詳しく解説していきます。

 

廃藩置県の目的

 

 

まずは、廃藩置県前の日本の状態についてです。

 

幕府が滅亡して徳川家の領地(天領)はそのまままるごと新政府の土地となります。

 

しかし、江戸時代に300ぐらいあった藩は明治時代になってもそのまま残っていました。

 

藩があることで困ったことが起きます。

 

もし、藩があると新政府がやりたい改革を実行することが難しくなってしまうのです。

 

この当時の新政府の土地はあくまでも徳川家からぶんどった天領のみで藩の土地は所有していません。なので藩に対しての影響力が無いのです。

 

例えば、新政府が藩の土地で『ここの土地を調べたいから計測するよ!』といっても『ここ〇〇藩の土地なんで計測される筋合いはありません』と言われれだそれで終了です。

 

さらにこの頃まとまった政体が存在していなく、政治体制はバラバラなのはもちろんのこと、貨幣も違う、言葉も違う、法律も違うなど、とんでもなくめんどくさい状態でした。

 

国内がバラバラの状態のままでは改革はいっこうに進みません。なので、新政府の改革をスムーズにするためには藩をなくして政府が力を持つ中央集権という形にしたかったのです。

 

廃藩置県の下準備『版籍奉還』

 

 

新政府はまず最初に諸大名に対して、藩の土地と領民を天皇に明け渡す版籍奉還を命令します。

 

 

これによって藩は無くなると思いきや、そうなことにはなりませんでした。

 

確かに藩の土地は天皇の土地になりましたが藩主は名前を変えて知藩事となっただけでそのまま版籍奉還の前の土地を任されました。

 

この時新政府の土地も府と県を作りました。このように藩と府と県があった状態のことを府藩県三治制と言います。

 

(※ちなみに江戸時代ちは藩という言葉は公式には使われておらず、版籍奉還によって公式の呼び名となりました)

 

しかし、府藩県三治制は元々新政府の土地がごちゃごちゃしていてわかりづらく、税収も少なかったため新政府は財政難に陥りました。

 

さらに戊辰戦争の戦費などで財政が破綻してしまう藩も出てきます。このままではまずいと思い大隈重信は『全国一致之政体』の方針を提出して改革を開始しました。

 

廃藩置県の実行

 

 

全国一致之政体を受けて新政府の中心であった薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩を中心に藩をなくす計画を立てていきます。

 

しかし、藩をなくすことになるとまた奥羽越列藩同盟みたいなめんどくさいことになりかねませんので、その対策として新政府のエリート軍隊を各藩に配置して脅しをかけようとします。

 

少々危なっかしいことになってきましたが、色々あってついに廃藩置県を実行します。

 

明治4年7月14日 ついに新政府は全国の知藩事を皇居に呼び寄せて廃藩置県の宣言を行います。

 

これによって藩は完全に廃止されました。

 

藩が廃止されたことによって藩は全部県となります。

 

また、代々土地を治めていた知藩事(藩主)権限を全部失ってしまい、東京への移住を新政府から命令されます。

 

しかし、知藩事の権限を全て無くしてしまうのはあまりにもかわいそうだったと思ったのかは知りませんが、藩主は新政府によって華族となってある程度の面目は保ちました。

 

廃藩置県によってできた各県には知藩事に代わって、新たに新政府から県令が派遣されました。

 

 

廃藩置県によって置かれた県

廃藩置県後、日本は3府(江戸時代に三都と呼ばれていた東京・京都・大阪)と302県の体制に変わります。

 

しかし、県が302県もあると細かすぎて県の権力があまりにも弱すぎます。

 

そのため県をどんどん合体していって県の数を減らしていきます。

 

最初の明治4年の10〜11月には230の県を吸収して、3府72県に統合されます。

 

そこから明治5年に69県、明治6年に60県、明治9年には35県と合併して明治14年に大阪府が堺県を合併吸収したことによって終了します。

 

しかし、今度は逆に県の規模がでかくなってしまって逆にめんどくさいことになってしまったため、最終的には3府43県となりさらにそこから北海道が追加して1道3府43県となり落ち着きました。

(東京が府から都になるのは1943年です。)

 

廃藩置県による影響

①改革がスムーズになった

廃藩置県によって日本の全ての土地が新政府のもとになりました。

 

これによって新政府は改革をスムーズに実行することが可能になったのです。

 

ちなみにこの頃の県知事にあたる人のことは県令といって今みたいに『選挙で決めよう!』ではなく『政府から命令されてきました』みたいな感じでした。

 

これによって日本は中央集権国家となりました。

 

②日本人としての自覚が生まれる

廃藩置県後日本は新政府によって一つになりました。

 

この廃藩置県によって、平安時代末期の源平の時代から領地を巡って戦争を続けてきた日本人の内乱の時代は終了したのです。

 

また、この頃どんどん内政改革が進んでいき貨幣の統一や法律や憲法の制定や標準語の開発などが出来上がります。

 

さらに日本人という認識が生まれたのもこの時からといわれています。

 

③大阪の商人が大混乱!

廃藩置県の後、藩が持っていた商人からの借金は新政府が返すことになりました。

 

しかし、出来立てホヤホヤの新政府に借金をきっちり返すことは難しかったので、徳政令を出して借金をチャラにしました。

 

 

しかし、金を出していた大阪の商人たちは貸していた金が返されなくなったため、商人は致命的な打撃を受けることになってしまいました。

 

これによって大阪の商人たちはどんどん破産していき、大阪は日本経済の中心的地位から転落することになってしまいました。

 

そして、経済の中心は東京に移り変わっていくのです。

 

まとめ

・廃藩置県の前の日本は藩や府や県などがあり非常にごちゃごちゃしていた。

・版籍奉還によって藩主は知藩事となった。

・廃藩置県後藩主は家族となって東京に移住した

・廃藩置県後302もの県があったがどんどん数を減らしていき最終的には1道3府43県となった。

・廃藩置県によって徳政令が出されて大阪の商人は致命的な打撃を受けることになった。