本能寺の変で織田信長に謀反を起こした明智光秀。
その後、織田信長の家臣である羽柴秀吉(豊臣秀吉)は主君の信長の仇、光秀を討つための合戦を起こします。
今回はそんな『山崎の戦い』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
山崎の戦いとは
(京都府にある山崎の戦いの石碑 出典:Wikipedia)
山崎の戦いとは、明智光秀による織田信長への謀反「本能寺の変」を受けて、1582年(天正10年)信長の家臣だった羽柴秀吉&その他家臣による軍と、明智光秀の軍との間で起きた合戦のことを言います。
山崎とは、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の境にあった場所のことです。
ここからは戦いまでの背景・経過・結果等を紹介します。
山崎の戦いが起きるまで
(本能寺の変 出典:Wikipedia)
主君の仇打ちでもあった山崎の戦いが起きるまで、一体どのようなことが背景にあったのでしょうか。順を追って見ていきましょう。
①本能寺の変
1582年(天正10)6月21日、京都の本能寺に滞在していた織田信長を、家臣であった明智光秀が謀反を起こして突然襲撃したクーデター事件を「本能寺の変」といいます。
戦国時代最後の下克上ともよばれている本能寺の変で、織田信長は自ら寺に火を放ち、自害したと言われています。
直接光秀が織田信長を討ち取ったわけではありませんが、このクーデターが成功し、光秀は天下人になりました。
②中国大返し
(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)
本能寺の変が起きていたとき、織田信長の家臣だった羽柴秀吉(豊臣秀吉)や他の家臣は、各地で合戦の真っ最中でした。
羽柴秀吉は、織田信長によって中国地方の平定を命じられていました。3月には備前(現在の兵庫県)に入り、中国地方を治めていた毛利輝元と対峙しました。
毛利軍に対して優勢だった秀吉ですが、6月21日に本能寺の変が起きた報せを受けます。
秀吉は毛利軍との戦いをすぐに取りやめ、堀尾吉晴、蜂須賀正勝を立会人として、合戦相手の備前高松城城主の清水宗治の切腹を見届け、毛利軍と和睦の講話を結びました。
そして、本能寺の変の報せを受けてから、わずか十日あまりで備前高松城から約200km離れた山崎に戻ったのです。
当時は車も電車もないわけですから、大変な距離です。この大移動を「中国大返し」といいます。
③明智光秀の動き
(明智光秀 出典:Wikipedia)
本能寺の変を成功させた光秀は、元々信長が治めていた京都の治安維持と、近江(現在の滋賀県)を平定するために仲間の武田元明・京極高次らの派遣を急ぎました。
近江の平定を急いだのは、織田信長に仕える家臣のなかでもとりわけ力が強かった柴田勝家に備えるためではないかと考えられています。
本能寺の変を起こした光秀ですが、残された織田軍へ対抗するためには仲間を集めなくてはいけません。
しかし、協力を申し込んだ親戚の細川藤孝、細川忠興の親子には遠回しに断られてしまいました。
加えて、味方だと思っていた筒井順慶は秀吉側に寝返ってしまい、明智光秀は十分な兵力を集めることはできませんでした。
そして、主君の仇をとろうとする秀吉の軍が自分たちに差し迫っている報せを受け取るのでした。
山崎の戦いの勃発
およそ2倍〜3倍とされた秀吉たちの軍との兵力差がありながら、光秀と秀吉の「山崎の戦い」は始まりました。
①合戦の開始
1582年(天正10)7月2日、雨が降るなか合戦は開始されたといいます。
天王山のふもとを横切って秀吉側の中川清秀の軍が高山右近の軍の横に陣取ろうとしたところで、光秀側の伊勢貞興の軍が襲いかかりました。
天王山で大きな戦いが行われたことで、山崎の戦いは「天王山の戦い」ともよばれ、この天王山での戦いに関する逸話がいくつか存在します。
しかし、実際のところ、山崎の戦いにおいて天王山での戦いはそれほど重要ではなく、そもそも天王山で戦闘があったかどうかも不確かだそうです。
一進一退の交戦状態が続く中、秀吉側の池田恒興・池田元助・加藤光泰の軍が光秀側の軍に奇襲をかけたことで、戦局は一変します。
この奇襲をきっかけとして、秀吉の軍は光秀側を圧倒し、光秀側の武将は次々と討たれてしまいました。
②三日天下
秀吉の軍に圧倒され、光秀は勝竜寺城になんとか逃げ込みます。
しかし、平城(平地に築かれた城)の勝竜寺城では秀吉の攻撃を防ぐことはできません。
加えて、兵士の死傷者は万を超え、勝ち目のない戦だからか兵は相次いで脱走し、残った兵の数は約700人ほどだったといいます。
そこで、光秀は秀吉の攻撃を避けるために、自らの城であった坂本城を目指します。
しかし、その道中で百姓による落ち武者狩りに遭い、殺されてしまいました。
また、なんとか坂本城まで逃れはしたものの、力尽きて自害したという逸話も残されています。
こうして、山崎の戦いは、わずか1日で決着がついたのでした。
わずかな間だけ権力を握るという意味の「三日天下」という言葉は、光秀が本能寺の変を起こしてから山崎の戦いまでは天下をとっていたという話に由来しています。
実際、織田信長を本能寺の変で討った光秀は、その後朝廷から征夷大将軍に任じられたという記述が『明智光秀公家譜覚書』という書物に残されています。
光秀が天下をとっていたのは、実際は3日ではなく、11〜12日ほどだったといいます。
③光秀の敗因
山崎の戦いで負けてしまった明智光秀。
その敗因は、まず戦力差です。秀吉の軍が約4万だったのに対して、光秀の軍は約1万6000ほどでした。
また、細川藤孝、忠興親子の協力を得られなかったのも相当な痛手だったでしょう。
秀吉は中国を平定するために織田軍の主力を任されていたので、そのまま山崎の戦いに挑むことができました。
こうした大きな兵力差が、光秀の敗因だったといえるでしょう。
山崎の戦いのその後
山崎の戦いで主君織田信長の仇をとった羽柴秀吉は、その後天下取りの道へと進んでいきます。
①清洲会議
山崎の戦いが終了し、1582年(天正10)7月16日、織田家の跡継ぎ問題とその後を話し合うための「清洲会議」が開かれました。
参加した織田家家臣は羽柴秀吉・丹波長秀・柴田勝家・池田恒興の4名でした。
この清洲会議で、山崎の戦いで功績をあげた秀吉が指名した信長の孫、三法師を跡継ぎとすることで決着し、秀吉は事実上の信長の後継者として地位を固めることになりました。
②秀吉の天下統一へ
清洲会議の後、秀吉は着実に信長の後継者として名前を世間に広めていきました。
しかし、織田家の筆頭家臣だった柴田勝家、信長の三男織田信孝との間で対立が深まり、秀吉は「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家と戦うことになります。
これに勝利した秀吉は、天下統一へ突き進んでいきました。
まとめ
・明智光秀による「本能寺の変」を受けて、1582年(天正10)、羽柴秀吉軍と、明智光秀軍の間で起きた合戦を「山崎の戦い」と言う。
・秀吉は本能寺の変の報せを受けてから、十日あまりで備前高松城から山崎に戻った大移動を「中国大返し」と言う。
・光秀は秀吉の軍に対して大きな戦力差があった。
・追い詰められた光秀は城に戻る途中落ち武者狩りに遭って絶命した。
・山崎の戦いの後、すぐに織田家の跡継ぎ問題を話し合う「清洲会議」が開かれた。
・主君信長の仇を討った秀吉は信長の後継者として力を強めた。