【一世一元の制とは】わかりやすく解説!!なぜ作られた?理由や日本&中国の導入時期について

 

今の時代では元号は天皇の退位と共に変わるものです。

 

例えば昭和から平成に変わったのは1989年に昭和天皇が崩御したという理由からです。

 

しかし、明治時代に入る前は天皇の代替わりで変えるのではなく、災害や内乱などでコロコロ変わっていました。

 

今回は元号のルールがガラッと変わった『一世一元の制』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

一世一元の制とは

(昭和天皇 出典:Wikipedia

 

 

一世一元の制は天皇一代につき一つの元号でいくというルールです。

 

今の日本でも続いていますね。

 

ちなみにこのルールが採用されたのは明治元年。つまり明治時代からそうなっています。

 

一世一元の制が決められる前の元号と制度の実施時期

(1814年 明暦の大火事の様子 出典:Wikipedia

 

 

一世一元の制が決められる前の元号は上にも書いた通り、災害や内乱などで変わっていました。

例えば

・彗星が接近したら改元(例:久安・宝徳など)

・戦乱が起きたら改元(例:応仁・享禄・天正など)

・火事や大噴火が起こったら改元(例:明暦・宝永など)

・他にも将軍の改元、江戸城が燃えたから改元、山崩れのため改元、などなど

 

たまにちょっと改元するほどでもないことで変えたりすることもありますが、このように一世一元の制の前はこのように変わっていたのです。

 

ちなみに嘉永という元号はペリー来航が原因で改元しています。

 

当時のペリー来航は天変地異レベルの問題だったのですね。

 

その後、日本は1868年の慶応から明治への改元時(明治維新のとき)に一世一元の制を実施しました。

 

 

なぜ作られた?一世一元の制が決められた理由

①ただ単に元号が変わるとめんどくさいから

一世一元の制が決められた理由の一つは単純に元号がコロコロ変わるといろいろめんどくさい事が起きることでした。

 

例えば、いきなり「延暦2年って何が起こったの?」って聞かれたとき、まず延暦2年が西暦でいうところの何年かをまず知らなければなりません。

 

延暦2年は西暦に直すと784年。

 

この年に平城京から長岡京に遷都しましたが、今の時代こんな事件が起きた年なんて普通に西暦で覚えるはずです。

 

わざわざめんどくさい元号で覚えている人なんて少ないです。

 

しかし、明治時代以前には西暦なんで便利なもの存在していません。

 

明治時代以前は元号オンリーでしたので元号で覚えなければいけません。

(元号の他に干支もあったけどこれはこれで60年で一周するから微妙)

 

しかも自然災害が起こったらコロコロ変わることによって、記録の年表をいきなり変えたりするなどいろいろ混乱も起きて大変だったのです。

 

②天皇の知名度を上げるため

 

 

もう一つの理由に天皇の知名度を上げるという理由がありました。

 

例えば・・・2018年現在、明治時代以降に存在している四人の天皇を答えなさいと言われたらほとんどの人が答えられるはずです。

 

なぜなら天皇の名前が時代の名前とリンクしているからです。

 

しかし、江戸時代に存在していた天皇を全員答えなさいという質問に答えなさいと聞かれたらおそらく答えられる人は歴史が好きな人以外では答えられる人は少ないと思います。

 

なぜならこの頃の天皇の知名度が絶望的に低いからです。

 

この頃の天皇は京都御所で日本古来の行事をするだけの存在で、ある程度の影響力はあったのですが、政治の権力はほとんどないに近かったのです。

 

そのため江戸時代の民衆たちも天皇の存在を知らないことが多々あり、明治時代になってやっと天皇のことを知るようになっていったのです。

 

明治政府からしたらこれから先、天皇中心で日本の政治を動かしていきたいのに、国民たちが肝心の天皇の名前を知らないということになると天皇中心の政治をやっていくのは非常に難しくなってしまいます。

 

そこで政府は国民たちがいつも使っている元号を天皇の代替わりと同じ時期に変えることによって、国民に天皇のことを知れるようにしたのです。

 

その結果がわかる事例に、日本が終戦した時に昭和天皇を処刑するかしないかということを話し合っている時に

 

『日本人は天皇を神としてみているから、ここで処刑したら日本がせっかく降伏したのにまた暴走してしまう!』

 

と思い知らされたのを見るとこの試みは大成功といえるでしょう。

 

世界の一世一元の制

(中国では明の初代皇帝 洪武帝の肖像画 出典:Wikipedia

 

 

一世一元の制は日本だけではなく中国や朝鮮などで使われていました。

 

ここでは中国や朝鮮などの元号について説明していきます。

 

①中国の場合

中国では明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)から一世一元の制となりました。

 

そこから明・清の間はずっとこの制度が残り、辛亥革命で清が滅びるまで元号が使われていました。

 

 

ちなみに中国で最初に元号が使われたのは後漢の時で、日本が元号を使うおよそ600年前から使っています。

 

しかし、中国と日本の一世一元の制の最大の違いは元号が『即時改元』『越年改元』ということです。

 

中国の場合越年改元となりますが、越年改元とは皇帝が崩御されても一応年が明けるまで元号は前の皇帝のまま使いましょうという制度です。

 

対して日本の場合は即日改元となっています。

 

これは天皇が崩御されたらすぐに元号が変えるという制度です。

 

例えば昭和天皇が崩御したのは1989年1月8日。

 

越年改元の場合だったら翌年の1990年に改元となるのですが、即日改元の日本の場合この時に元号が変わったのは天皇が崩御なされた1月8日からでした。

 

このように中国と日本では一世一代の制にちょっと違いがあったといえます。

 

②朝鮮の場合

 

 

一世一元の制は朝鮮でも採用されていました。

 

朝鮮で一世一元の制が採用されたのは李氏朝鮮末期の1896年。

 

朝鮮国王は1895年に一世一元の詔勅を発布して翌年の1896年に太陽暦が採用されたのと同時に建陽の元号を作りました。

 

さらに翌年の1897年には国号を大韓帝国と改めると共に元号も光武と改めます。

 

その後は1910年の日韓併合によって大韓帝国が消滅するまで一世一元が続きました。

 

朝鮮がこの制度を導入した理由は、朝鮮がもともと清の従属国だったので一世一元の制などの制度を導入して清や日本みたいな強い国に目指そうとしたためです。

 

朝鮮の涙ぐましい実情がありました。

 

まとめ

・一世一元の制は皇帝が即位した時から崩御するまで同じ元号にする制度。

・一世一元の制以前は災害や戦乱などで元号を変えていた。

・一世一元の制は日本だけではなく中国や朝鮮などで採用されていた。